シトー会の祈りの空間について

ユリアヌス先生のところでシトー派について少々やり取りをした。
聖ベルナールという人は12世紀の人で当時クリュニー修道会が全盛だった時代に真面目にシンプルな修道院生活を目指して修道院の改革をした人だ。ベネディクト会から派生したシトー会は観想修道会の一つであり厳格な戒律を持ち、祈りと労働に従事する修道者の共同体であり、ベルナールはそのシトー派の共同体を建て直し大きく発展させた人である。
シトー会という修道会については青池保子の漫画にもなっています↓

修道士ファルコ (2) (Jets comics)

修道士ファルコ (2) (Jets comics)

この漫画でミサの光景が対面式なのはおかしくないか?式文が第2バチカン以降の式文だぞ。とかそういう突っ込みはなしで、教会ヲタには面白いのでお勧めいたします。
当時巡礼の流行によってクリュニー修道会等を中心に多くの修道院建築、聖堂が建てられていくなかで「厳格な」ベルナールは異議申し立てをする。時代はロマネスクからゴシックに移行していった頃だ。12世紀というと各都市を結ぶ商人達の移動も頻繁となり、また多くの農村が豊かになっていった時代でもある。民衆は半ば娯楽的な、日本でいうならば弥次さん喜多さんの「東海道中膝栗毛」のような物見遊山であちこちの聖地巡礼に詣でてみるのが夢だったりと、とにかく人の行き来が盛んになっていく時代でもある。サンチャゴ巡礼は教会にも奨励される巡礼でもあり、贖罪のために行くものもあれば、物見遊山で行くものもある。これらの巡礼ルート上にはこれまたプチ聖地があり、先だって私が行った聖フォアを奉ったコンク、黒マリアで有名なサンマリー・ド・ラメールやル・ピュイなどもその一つである。物流と人が動けば経済は発展する。多くの人を受け入れるための器も必要となり、またその資金も経済の発展によって潤沢となる。このようにしてあたかもバブル期の日本のごとく、もしくは高度経済成長の中国のごとく、多くの聖堂が新たに建設されていく。ゴシックは必然によって生じたものでもあった。腕のいい石工もまた仕事を求めて大移動してゆく。聖堂建築は彼らが職人魂とその創作性を活かす場でもある。そういう光景を生き生きと描いた小説にケン・フォレットの「大聖堂」がある。

大聖堂〈上〉 (新潮文庫)

大聖堂〈上〉 (新潮文庫)

日本人作家のでこんな秀作もあります↓

旅する石工の伝説

旅する石工の伝説

回廊の柱頭に掘られた怪物、或いはガーゴイル達、柱に刻まれる聖人達。石工の腕は時代が下がる事に上がり、その装飾はどんどんと華麗になっていく。聖堂は天上の美の再現であるがゆえの非日常的な光景をそこに映しとらねばならない。石工達は聖堂という祈りをささげるに相応しい美をそれらの造形を通じて探求していった。大衆にとって聖堂は神との出会いの場であり、神秘でなくてはならない。そこには日常の延長は必要ない。寧ろより非日常の美が存在することで神秘に出くわすのである。こうした精神性は現代でも多くの人々がカタルシスを得るために都会にある非日常空間を求めるのに似たようなモノかもしれない。中世における庶民にとって非日常を愉しむ開かれた空間としての聖堂。それは大衆の共同の財産でもあった。或いは今でこそ簡素な風情になってしまったが奈良にみられるような日本の古代の寺院が実は豪華絢爛な彩りであったのもそういう理由かもしれない。
しかし、サン・ベルナールの「美」の認識は違っていた。
かれはゴシックの過剰な装飾の風潮を批判している。そして自らの会の聖堂には簡素さを求めた。彼が指揮して建てたと言われるフォントネー大修道院は今は廃虚化してただただ広い空間がそこにあるのみである。しかし聖堂の、或いは僧房の、石の厚みのみを感じる空間は「静寂」という言葉が相応しい。一切の装飾を見ることも出来ない。そこには石の沈黙があるのみである。かれはゴシック期の最先端の技術を用いてこの聖堂を建てた。ユリアヌス先生も指摘していたがこれらを「厳格故の清貧の形である。装飾美の探求は豪奢に通じることへの批判である」などと考えるのは間違いである。彼はあたかも現代美術家の視点で修道会の霊性という抽象的なものを具体化し表現して見せたのだ。過剰なゴシックが大衆にとっての美であったように、シトー会の目指す修道者のための美はあの形でなくてはならなかったのである。修道者は大衆と違い、そこが日常の空間である。そして彼らの生活派全て神に向かう道の探求に費やされるのである。それ故に生活の大半を占める環境の形状についてベルナールが重要視するのは当然である。
内田樹氏が身体性というものにたびたび触れている。どうも彼は武道を通じて世界を理解するということを行っているようだ。なかなか面白い。その彼が過剰な情報に晒された人間の感性の鈍さについて指摘していた。曰く、「電車などに乗っていて、電車のすごい音にきずかず、何故、隣に座ったヤツのヘッドフォンの音が気になるのか?」「都会の喧騒の中に放り込まれたようなアパートで、人を呼んでもでて来ない。出てきてもなにか反応が鈍い」「教鞭をとっている女子大の学生は、都会から通って来ている娘はきりっとして、はきはきとした受け答えをするが空気の読めない娘が多いのに対し、田舎にある寮住まいの娘はもっさりとしてぼ〜〜っとした娘が多いのだが、その実相手がいわずとも空気を読む」などと実体験に基づく観察を書いていた。内田氏が言うには高刺激の多い環境(人工的な押し出しの強い情報に溢れた場)に身を置くと感受性が鈍る。逆に低刺激環境(自然が豊かにあるなど)では感受性は豊かになりコミュニケーション能力が高まるということらしい。人間は無意識に強い刺激に対しては防衛戦を張る、だから受け取れるはずの情報も閉ざしてしまうことになるということか。
サン・ベルナールは修道院建築という、修道者の生活環境を低刺激環境に置くことで、祈りという目的に特化した空間を造りあげたといってもいい。沈黙を重んじる彼らの生活では当然また環境も沈黙が存在していなければならない。内田氏のいう処の「空気を読む能力」を高めていくような。沈黙のうちに沈黙からなにごとかを得ていくような精神活動。彼らの典礼音楽も現代からすると単調かもしれないが、その単調さが創りあげる静かな音声が静寂を感じさせ、沈黙の空間をより際立たせていくのだろう。シトー会の霊性はそのような霊性である。
これらの精神の美の再現はなにもベルナールに限ったことではなく、たとえば日本の伝統的な美意識「借景」神社や禅宗の僧院にある静謐な空間、茶室といった精神的建築にみることが可能である。これらも目的はその精神性の探求のための建築である。(勿論、逆に過剰な装飾的な美も日本の伝統的な建築は知っている。バロックにも通じる日光の東照宮密教のたとえば鞍馬寺の地下墓所の光が織りなす曼荼羅世界の再現などはその一例であろう。密教の美はまた別の精神性の探求のための形であると思う)
シトー会の本はこれが秀逸です↓

シトー会修道院

シトー会修道院

フォントネー大修道院は12世紀のモノ派だな。フォントネーの他、トロネとかセナンクなんかも同じ系列。
フォントネーはこれ↓
http://homepage.mac.com/kch_kato/gothic/base_de_donnees/fiche/fontenay.html
幾何的な美の探求の形ですね。
なんでも、ウンベルト・エーコは「薔薇の名前」のあの修道院のプランを考える時ここを参考にしたらしいです。他モアサックとか色々継ぎ接ぎだそうだが。
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さて、我が島はこのうえなく低刺激である。今も波の音しかしない。静かな夜はほんとに静かで、夜は闇が閉ざす。一寸先も見えない闇がある。星の明かりを明るいと感じる、月の明かりをまぶしいと感じる。そういう闇だ。自動販売機の明かりがぎらぎらと目に痛いほどに明るいことに気付いたのはこの島でだよ。こういうところにずっと居るともう「もっさり」度がすごくなり、ぼ〜〜〜っとした精神がよりぼ〜〜〜っとしてしまいそうである。ましてやいつもは一人+島犬カナというこれまた低刺激な生活で、逆にこういう風だとサバイバル能力を失うんではないか?と思わなくもない。もっともこうしてぱそぱそをしているので、ネットから刺激物の垂れ流しの恩恵を受け、それで保っているのかも知れないですよ。
そういえばこの低刺激の我が島での非日常的なモノというと歳事の祭りである。島の人はことのほか歳事のことどもを大切にする。冠婚葬祭、家の建築という各家の祭はもとより、神社にささげる奉納の踊りや相撲といったものも大切に考えている。初詣出も多くの人が来ていた。父の運動ためにもと初詣出に誘ったが、そういうことぐらいしかほんとに遠くに出かける口実がないぐらいこの島の低刺激ぶりであるよ。
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ユリアヌス先生からシトー会とフランシスコ会の繋がりについてご示唆いただいたが、そういえばフランシスコが好んで祈った場というのは岩山であった。剥き出しの大きな岩がボコボコあるような処が好きだった。フランシスコ会の修道会は都会の近郊にあったりするのだが、祈りのために引き篭るとなると突然すごく変な処に行く。ラ・ヴェルナは今でこそ立派な僧房があるが、昔は岩剥き出しの、自然の野蛮さを満喫出来るような、山の中で、フランシスコは石の洞窟みたいなところで寝起きしたらしい。今も「ここで寝ました〜」という岩の中の寝室を観ることが出来る。ボナヴェントゥラが祈ったという礼拝堂もアントニオが祈ったという礼拝堂もあるけどすごく狭くて小さく岩肌にへばりつくようにそれはあるが、当時もそうであったのかは知らない。
とにかく石を眺めて祈る。石の質感と相対して祈るというのはなにかあるのだろうか?ミケランジェロは石の中に彫像が内在しているといい、レオナルド・ダ・ヴィンチは石の模様の中に世界を観ていた。中国の賢人達も峻嶺な岩山の中に篭っていたりするし、中国絵画の仙境は岩だらけだ。
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それにしても内田氏の指摘は面白い。
昔、絵を描けなくなったことがあって、それはあまりにも情報が氾濫している中に身を置いていた為と気付いて、一切、トレンド系情報系の雑誌を或いはテレビを観ないように遮断したことがある。以来雑誌もテレビも眺める習慣はなくなった。せいぜいトレンドとは関係のない親父雑誌を買うくらいだ。大量の情報の刺激が自分自身の創作性に影響を及ぼすことに気付いたのはその時である。
まだわたくしが下流に成り下がる、一人前の働く人であったとき、毎年イタリアや或いは他の国に行っていた。特にイタリアは長期滞在をした。こうでもしないと色彩感覚が取り戻せなかったからだ。日本の都会の光景は看板やネオンに溢れ刺激的ではあるが、美的な感性を養うにはあまりにも苦痛だと感じていた。けして日本の風景が悪いわけではない。というのもそれはそれで帰国するたびに寧ろ感動してしまう何かがあるのではあるが。ただ高刺激な造形が多いということなのだろう。
そういえばアメリカや日本のアニメ的な色彩感覚がわたくしはガキの頃から駄目であった。クレヨンの12色の色は私にとってつまらない色。汚い色であった。変な色、中間色を好んでいたので24色の或いは36色の絵の具やクレヨンや色鉛筆をねだり、ガキの癖に腐った色をよく使って絵を描いていた。今思えば子供の頃の環境は色彩的刺激がなかった。母は洋裁をやっている性か色彩の変な色の外国の輸入生地を良く使っていた。イタリアやフランス製の布が家に散らばる環境だった。テレビはずっと白黒。白黒テレビなどもうほとんど置いていない時代まで白黒で観ていた。電化製品は壊れるまで使うがモットーだったためだ。新製品が出たらそれに買い替えるという発想がないために中途半端なアンティーク状態なモノに囲まれていたよ。家の側には神社があり、その杜でよく遊んでいた。首都圏とはいえ自然に囲まれた環境だった。夏休みごとに行く京都の祖母の家は昔ながらの町屋で、遊ぶといったら近所の神社仏閣巡りしかなかった。そういう意味では低刺激な視覚環境に身を置いていたと思う。
欧州に行くと変なモノだらけだし人工物だらけだが、視覚的刺激というとボロボロに風化した染みだらけの壁が続くとか壊れかけてボロボロになった石造りの家とかそんな感じで野蛮であるし、それでも何回も行くうちに田舎にばかりいきたがるようになってしまった。フィレンツェの街の喧騒やローマの町の喧騒がだんだん嫌になってくる。こういうのは人嫌いな性なのかと思っていたんだが、そうではなく単に刺激の強い環境に疲れている性だったのだと内田氏の指摘で初めて気付きましたね。今は島に居るのでそういう切実な欲求があまり起きない。まぁ下流状態なので行けないのも一つの理由だけど。