クリスマス

街に出てみたけど島のクリスマスは超地味。すごく地味。気が遠くなるほど地味。正月用の鏡餅の方が重要。そもそもケーキ屋さんがないしケンタッキーもないもん。これがかつてはスタンダードな日本のクリスマスの光景だっただろうと思われ。いつからクリスマスはこんなに派手になったんだろう?
というわけで瑠璃子さんのブログでもクリスマスに異論。

クリスマスってなんなんだよ
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-12-20-1
ハニーやダーリンやらアイレンやらと我愛イ尓してうひょひょだろうがなんだろが、とにかくクリスマスに
プレゼント買ってディナーでセックスという流れがよくわからない。まあ当日セックスはしないかもしれな
いが近いうちにするンだろうから一緒であると勝手に決めつけ。とりあえず求愛活動全般を全面展開される
のもなあ。もみの木見上げてスコスコインっていうわけでもなかろうに。しかしシチュエーション付のフィ
ルターかけたセックスって萌えるしな。
(中略)
振り返れば栄光のバブル時代。恩恵を受けられる世代でもなく、まだ来るべき大不況が毛ほども感じられな
かったあのころ。私はビックコミックスピリッツの「気まぐれコンセプト」なぞを読むたびに、はぁなるほ
ど大人になるっつーのは、プリンスやら京王プラザやらでディナーしてセックスしてチェックアウトすると
きに恥ずかしい思いをしてはじめて一人前、

・・・と、クリスマス恋愛症候群のウイルスをまき散らす社会に怒っています。
気まぐれコンセプト」・・・・懐かしいなぁ。

バブル期の絶頂、広告ギョーカイは「周りから埋めていく」という作業が中心となる。「この商品がええで〜」という直接的なものではなく、ライフスタイルを提示し、「そういう生活が素晴らしいからそういう生活をするためにはこれとこれを消費しろ。」という手法。かつてはアメリカさんが日本を占領した時に「アメリカン」なスタイルが一番であることを教えるためにファミリーな映画とかドラマを日本に輸出したのもその手法だが、「ニューヨークパパ」とか「奥様は魔女」をみて、「アメリカンな豊かなホームが羨ましいづら。」とすり込んでいく。お陰様で冷蔵庫、システムキッチン、洗濯機、家庭の主婦の便利アイテムは今や当り前に存在するのですよ。下町の井戸端という光景はそれによって喪失する。

バブル期になると、こうしたライフスタイルも日本発のものとなっていく。トレンディドラマと、マガジンハウスに代表されるカタログ雑誌を筆頭に「流行通信」のごときなんとなく尖った高級イメージを醸し出す雑誌とか、IDの様なロンドン情報の雑誌なども日本で売り出される。イメージ広告が多く西武グループのなんの広告なんだか判らないCMが流れたりしたよ。ライフスタイルどころか意味不明なシロモノ。だがその意味不明の中に込められた「クリエイティビティ」な生活に刺激された人々が自分の生活圏を「クリエイティビティ」にするために価値の多様化が進みはじめる。しかしクリエイティブな幻想の影に実はマスコミに煽られた自分というものがある。どこかの業界の経済活性化のためのイメージ戦略に乗せられているわけです。

で。クリスマス。クリスマスの過ごし方はアメリカさん主導だった頃はファミリーで過ごすものとなっていた。思えばわが家も樅の木を飾り、24日には母の手作りのケーキを食べ、鳥の丸焼きをたべた。翌日、樅の木の下にはクリスマスプレゼントが置かれていた。今思えばささやかなプレゼントではあったが。家族とともに喜ぶ日。それがクリスマスであったよ。
しかし、バブル期になると何処の業界が推奨したかったのか(ホテルギョーカイか?宝飾ギョーカイか?)恋人達がプレゼントを贈り合い、愛を確かめ合う日になってしまった。アメリカだったらさしずめダンパの日がそんな感じだろうけど。ボーイフレンドに誘われない娘は壁の華。ジャニス・ジョプリンなんかは万年壁の華な自分を造った社会への反発からあんなすごい(ちょいと怖い)人になってしまったんだが、クリスマスの孤独は日本で反クリスマスなすごいアーチストを産み出さない変わりに、「クリスマスが淋しい」ってな曲を作って共感を得ている人は沢山いる。
そういうわけで、恋愛症候群なクリスマスウイルスが寒風吹きすさぶ師走の街をはびこることになってしまった我が国の民は適齢期になると落ち着かなくなるという按配。そして高価な商品を物色する殿方や淑女で街は賑やかになるのである。私なども一度でいいからシャネルの時計とかブルガリの時計とかプレゼントされてみたいものではあるよ。・・・なんで時計かっていうと今、手持ちのがろくなのがないから。・・・という按配に、相手の愛とかなんかより打算的ないけない思考がムラムラとこの時期に頭をもたげる人も多いんだろうなぁ。

で、今年はしけているわたくしめを憐れんだ某氏から「神学生カレンダリオ」(美形で禁欲的な萌えな殿方を眺めて悦べ)なるものをいただいたけど、実はキリスト教信者となるとクリスマスってのは寧ろ教会行事でそれどころではない。しかも今年は祖母の洗礼式であるので、その時のご馳走をどうするかとかが重要課題である。
◆◆
で、商業主義的日本のクリスマスが何故か恋愛推奨ディになってしまったのか?

我が島にも祭りがある。節句の大潮の時。旧暦の3月3日、島の人々は子供が産まれた祝いに浜に下るという話を昔書いた。海に生きる民として海に受け入れてもらえるように願うのか、その年に生まれた子供を海に浸け、子供の節句を祝うのだ。一族が浜に集まり飲めや歌えのひとときを過ごす。今は子供の祝いを浜に降りずに家で行うところも多いようだ。しかし浜下りの日はたくさんの人が浜に下り、海の恵みを拾う。海と人とがともにあることを実感する日である。
ところでこの日、妙齢の男女はそれらの人々とは別の場所で過ごした。現代は行われていないようだが、かつては島中の若者がハミゴーと呼ばれる岩だらけの浜に集まり三線を奏で、要するに合コンをした。この日は島に散らばる集落の若いものが集まり交流をする日である。そこで気に入った人を見付けたら、交流が始まる。少しはなれた岩陰でカップルとなった男女が語らう。こうして恋人達が生まれる。普段は農作業や家の仕事に追われ、なかなか他所の集落の人と知り合う機会のない彼らのいわば集団見合い的場でもあったようだ。
日本の祭というのは若者にとってそのように利用されてきた。
ようするにクリスマスといえば恋人達の愛の交歓日と変質させてしまった我が国の民は、異教の祭りであるクリスマスを、日本の伝統文化に組み込んだともいえる。なんとも逞しいといえば逞しいのかもしれない。
・・・・・・・・が、金のかかるような方法論になってしまった辺りが現代であるよ。