待降節

今度の日曜日から、待降節に入る。クリスマスを迎えるに当たって「主の降誕」を待ち望む時期という意味である。アドヴェントなどという季節だ。この時期になるとヨーロッパでもクリスマス準備が始まる。といってもあのサンタクロースはアメリカのシロモノだし、クリスマスツリーはドイツのシロモノである。なもので他の国ではあまり見かけなかったこの風習も徐々に浸透はしてきてはいるらしいが、イタリアではやはり「プレゼピオ」と呼ばれる降誕人形(イエスの誕生の場面を立体的にヴァーチャルに再現したもの)を飾るのがメインだろうね。これは等身大のすごいのから何故かすごいジオラマ、つまり街全体の光景を造り聖家族は申し訳程度に端っこに存在しているなんてのまである。で、クリスマスの祝いは各家庭でするので実は街の光景はどことはなしにしょぼい。フランスのシャンゼリゼのイルミネーションが有名なくらいで、アルルとか田舎町の電飾は帰って寂しさを募るばかりとか、流石にお店のディスプレィはクリスマス仕様のモノとなっているところは多いけど。やはり世界中で一番派手なクリスマスは日本とアメリカだと私などは思うよ。
ところでわたくしはその待降節を迎えるにふさわしく、イエスの受難の絵を描かされている。ギョーカイ用の仕事だ。で、イエスの物語を描いているうちにだんだんイエスという人にムカついてきた。なんとなくヒッピーの親玉みたいだし、えらそうなことを言っているし、意外と乱暴だし(商人を神殿から追い出したり、イチジクに八つ当たりをして枯らしたり)とにかくなんとなくいけ好かないヤツだ。なによりその人物を描こうとすると卑しげなヒッピー臭くなって嫌だ。なにかイエスの肖像というものが私の中では違う方がいいよなどと思ったりしてしまうのである。
エスの像がどうも私の中で結ばないので、師匠に相談したことがある。すると師匠はあなたが好きな人とかを想像してもいいよ。どうせイエスの顔など誰も知らないんだから。と言っていたので、昔の恋人などを思い出してみる。・・・が、やはり聖域の存在にそういうのはどうかと思う。なもんで聖なる存在なら・・と、師匠の顔で想像してみるがそもそも師匠は地蔵に顔が似ているので仏陀になってしまう。駄目だ。
とにかくイエスという人物をリアルに想像しようとするといきなりあまり好かんやつに成り下がってしまうのは困ったものだ。なもので安彦良和氏のイエス伝を引っ張り出してきた。

愛蔵版 イエス

愛蔵版 イエス

安彦氏はイエスの奇跡の物語を明快には描かない。寧ろ奇跡はここで否定され、「体の復活」はなかったモノとなっている。あらゆる神話的要素は排除され、イエスはマグダラと関係があり、マリアはただの老女として描かれる。まぁ、昔だったら「禁書」とか、どこぞのローマ辺りの組織がいいそうだけど、これがなかなかよい。「人としてのイエス」というのを考えるときは、これくらいの強い人物がいいよ。彼の描くイエスは威厳があり同時に深遠であり苦悩する存在でもある。ナニよりカッコいいよ。
そもそもイエスの物語は聖書が伝えるあれしかなく、聖書の物語もそれぞれ執筆者の思想背景で微妙に脚色されている。 だからイエスのことでわかっているのは、ナザレ出身のヨセフとマリアの息子、大工であり、のちに「預言者」と呼ばれた男がいて、エルサレムで磔となったという歴史的なことと、幾つかの言葉である。それ以外は伝承として多くの人が信じてきたことだ。イエスの存在すら伝承だという人までいるが、それはともかく伝承に彩られていることは確かである。つまりそれは多くの人が「イエスとはなんだったのか?」を考え続けた蓄積でもあるのだ。
奇跡を信じるか?信じないか?と聞かれれば、私は「信じる」というだろう。つまりその伝承に拠る「信じる」としてきた多くの人々が伝えんとした、そのことに私自身奇跡を見るからなのだが。
ただ、私自身が考える私的なイエス像はぼやける。それは像を結んではいない。曖昧で流動的だ。だから絵に描いたり物語にしたりできる人はすごいなぁと思うよ。