タリウム女学生について考えてみる・2

私は魯迅が好きだ。魯迅の「阿Q正伝」は傑作だと思っている。今や青空文庫でも読める有名なこの小説、魯迅は無気力で怠惰な愚民である中国人の大衆批判としてこれを書いた。ニーチェがドイツの大衆を或いはキリスト者たちを批判したように、オルテガのごとく大衆が市民としての自覚を貴族性を持つべきだと、まぁ魯迅辛亥革命後の中国の大衆世界の相変わらずぶりにイライラしていたようでもあるらしいけど、ただこのリアリズモともいえる小説の阿Qという人の持っている小人の知恵というのはそれなりになかなかしたたかだと思ったりもする。
阿Qは「精神的勝利法」という超弩級の技を保持している。例えば彼が内心軽蔑し嫌っている耶蘇かぶれの日本帰りの「偽毛唐」に対しすれ違いざまに、うっかり「禿」と小声で罵ってしまい、当然のごとくステッキで殴打されてしまう。打たれた彼は腹の虫を先祖伝来の「忘却」を用い、すれ違いざまに尼僧に八つ当たりをして「勝利」する。軽蔑している虫けらと喧嘩になって負けても「精神的勝利法」を用いて「せがれに殴られたようなものだ」と、相手を一段低くおくことで内面で「勝利」する。とにかく諦めがいいというか、権力者や強いものには畏怖を覚え弱気な態度ではあるが内心その価値を認めず、そのくせ自分より弱そうな存在にはえらそうに振舞おうとしたり暴力的になったりして強いものに対する自分の「負け」を取り戻す。とにかく救いがたい「小人」であるが、小人の生きる知恵、自尊心の置き所がここで手に取るようにわかるのが面白い。

タリウム女学生について「週刊文春」にジャーナリスト草薙厚子氏が書いた記事を取り上げ、瑠璃子さんがブログでこのように書いておられた。

WHAT'S NEW PUSSYCAT!?
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-11-11
マスコミやワイドショーは結局特殊な事件に仕立て上げたいのだな、と妄想してみたり。何度も言うけれども、これはどこの家庭でも起きる可能性があるとわたしは思っている。パズルのピースを集めながらも、決定的なピースを得ない人と得てしまう人がいる。ではその差はなんなのか?それを考えることが、あなたがフランケンシュタイン博士とならない唯一の手段であるとは思わないだろうか。読めば読むほど残念に思う記事だった。

草薙氏はこの事件の女子学生をナニか特別なものとして取り扱い、それに違和感を覚える。と瑠璃子さんは指摘する。同感である。
先日のエントリで書いたが、この女子学生の精神性は私には理解しやすいと書いた。ごく普通の夢想する女子学生。しかしブログに綴られた文書から彼女の内面は確かに想像しがたい。或いは報道から聞こえてくる彼女の混乱したような言動。そこからは母親への感情は一切見えない。自己という存在ががあるのみ。

タリウム女学生に見えるのは抑圧された自我だ。その置き所をどうしていいかわからず自ら抑圧しようとしているように思える。それは思春期の女性にはよく見られる現象でもある。「自分が一番嫌い」と告白する思春期の固有の思いを抱いたことのある人は多いだろう。
璃子さんも指摘している通り、彼女はいじめられていたようだ。男の子に気持ち悪がられていた記述もブログにある。孤独となったとき彼女は他者との関係性を絶ち、他者の価値を無化するというまさに阿Qの精神的勝利法で立ち向かったのかもしれない。自分を持て余す自分と他者に認められない自分。それと相対するために感情を押し殺したペルソナを纏い、「僕」という一人称で性を捨て、そして他者である家族に対してすらその価値を無化するという方法でなんとか自我を保っていたのかもしれない。

そうした行為は往々にして我々も無意識に行っているだろうが、彼女の場合孤立し、尚且つ「科学」というあまり周りにはいない趣味だったので語る友人もなかっただろうコトが予測される。
私の知り合いは海外駐在が長すぎて、彼女の子供達は皆海外のアメリカンスクールで教育を受けた。ヨルダンから帰国し日本の学校に入れなければならないときに相談を受けた。彼女いわく「息子は日本の学校で浮いてしまうというのよね。彼は歴史や考古学が好きでそういう話をしたくてもそういう友達がいない。日本の中学生は芸能話が好きだったり、恋愛にはませているけど、うちのはそういう話が好きじゃないし、浮いてしまう。」と悩んでいた。そもそも外国で日本のテレビも見ていないから話が合わないだろう。私自身小学校のときはいじめられないようにテレビで芸能ネタを「勉強した」記憶がある。アレは苦痛だ。興味のないものを学ばねばいけないってのは腹も立つ。
件の女子学生も浮いていたのだと思う。興味のズレがやがて孤立化し、そのズレによって友達からスポイルされていく。そしてより自らの世界に閉じこもっていくのだと思う。自我を守るために武装しながら。しかしその手法は自らの自我を結局のところ抑圧していくことになり、どこかで解放していかないと辛い。
浦沢直樹の『MONSTER』という漫画に完全なる悪としての「ヨハン」という青年が登場する。冷徹に自分を知るものを抹消していくヨハン。しかし彼の内面では自らの抱えるモンスターを持て余しドクトル天馬に(ひじょうに遠まわしながらも)救いを願う。タリウム女子学生はこの「ヨハン」とも通じるナニかを感じなくもない。「助けて!天馬!」と叫ぶヨハンは人間性を取り戻したい叫びでもあったかもしれない。
弱者の「勝利法」は自分より弱いと定義つける他者への(あるいは憂さ晴らし的にまったくの他人への)暴力として飛び出す場合もある。いじめもその一つの行為ではあるが、或いは暴力、セクハラ、様々な形があるだろう。
どんな人間でも自我の抑圧に晒されてはいる。それらを克服するには「他者に認められる」コトがやはり重要なのではないかなどと思う。でもその「認める」という定義も単純なものではないとは思う。個々に価値が違うのでこうという単純な回答はない。しかし身近な人間、親、兄弟、或いは友達、妻、誰かに認めてもらいたい。そういうのは人間の本性にあるとは思う。
例えばキリスト教ではイエスという人は最後の受難に於いて彼を信じていたはずの弟子たちからも見捨てられる。そうした惨めな体験を通じて栄光となった人がいて、そしてその苦しんで死んだ人イエスが常に同伴者として存在しているのだとキリスト者は考えるのである。「神はいつもそばにいる。」と考える中でキリスト教徒は孤独ではなくなる。こうした精神的システムで「認められたい」煩悩を解消していたりするわけだが、この手の弱者の「精神的勝利法」はニーチェの嫌うところであったりもする。しかし、当のニーチェは結局孤独のうちに精神が崩壊してしまうのだから、どっちが幸せなんだかよく判らない。わたくし自身はそうしたニーチェの誠実さが好きなんだが彼は大変なことを担ったと思う。そして結局、彼もまた認められたいという自我からは逃れられなかった。
そうした認められたいといったような肥大する自我の克服は仏教などでも「執着を捨てる」とか「煩悩を絶つ」といった精神的修養で解決していたと思うし、例えば私のギョーカイであるカトリックの聖人、聖フランシスコにいたっては酷い目に遭わされ見捨てられることが「完全な歓び」などといっているわけで、ただの自虐馬鹿としか思えないが、これも精神的勝利法として有効かもしれない。とはいえ・・・聖フランシスコの場合はキリストオタクなので、同じ目に遭いたくて遭いたくてたまらなかったのだろうし、自分の理想が修道会で通らなかったときなどは悩みまくって山に篭ってしまうので。ほんとうはかなり自我が強くて持て余すほどの性格だったかもしれない。
とにかく、異常な殺人や事件を起こすその分水嶺については私もわからない。ただ小出しに抑圧を解決する方法というのは日常に行っていかないといけないとは思う。爆発してしまう前に。それは本人がなんとかして自力で克服するしかないことではあるのだが。

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璃子さんの続きのエントリ発見。
http://blog.so-net.ne.jp/pussycat/2005-11-12
こちらでは更に文春記事への批判と、残酷な行為へと至った過程について色々考察。

さて文春で識者と呼ばれる人が彼女の例を特殊なものとして扱っていることに違和感を感じたと多くの人が書いている。同感である。誰しもが内面にもつ「MONSTER」をどのように飼いならすか、解き放ってしまうのかという話に過ぎない。しかし識者はこうした内面をも画一的に考えたいというのか?こうした分析は結局多くの個性をスポイルしてしまう。ただでさえ平均化しようとする社会価値で内面までも平均化され、そこから少し外れたら「間違っている」などと言われたら、少し外れた個は否定され行き場を失う。この人たちは少女の自我を守らねばならなかった「敵」の一人であると思うよ。こういう発想が一人ひとりの個性を追い詰めていく。

社会共同体は法によって秩序されねばならないので、暴力行為などに訴えかける人間は市民としての責務を放棄し、乱した罪を市民として償わねばならない。しかし、精神面での救いというものについてはやはり皆が共同で考え続けねばならないことだと思う。例えばかつては社会の法ではできないそのようなものを伝統的には宗教が担ってきたと思う。「罪びとの救い」というのはそういうことだ。他方で罰し他方で救うということが自然にあったわけだが、最近は宗教が胡散臭くて罪を犯したりもするので信用がなくなってしまっているので情けない。
まぁそれはさておき、法に触れるような残虐性というのは、例えば命を奪うような残虐性というのはどのように我々は抑制してきたのだろうか?他者への思い、もしくは痛みをわがことのように考える想像力というのはどのように育まれたのだろうか?私自身物心ついた時にはそういう感覚が既にあった。何故生じたのかは記憶にはない。

子供時代、なんらかの生き物を殺してしまうことがよくあることだと私は思う。蟻だのといった昆虫から、爬虫類、それこそ小動物に至るまで様々経験することだろう。猫などの小動物を殺した経験から殺人に発展するという経緯はよく知られている。いわゆる快楽殺人犯、淫楽殺人犯といった犯罪者はそういう行為を下敷きにしたと論述しているケースが多い。ただそこで見つかって怒られた人はかなり多いと私は思う。もしくはなんらかの宗教上の倫理観で反省したりするといった行為から、罪悪感を覚え、二度としなくなるというケースがほとんどだと思う。(祟られるよというのもそのひとつ)この少女にはそういう行為が倫理上悪とされるということを誰も教えなかったのだろうか。学習する機会があったのだろうか。家庭で学習できなければ学校や地域社会でなんらかの啓蒙活動は行われなかったのだろうか。今の社会というのはそういう状態になってしまっているのだとしたらかなり絶望的ではあるが、それはないと信じたい。

確かに瑠璃子さんが上記で指摘するように、子供の頃「バチが当たる」とか「神様が見ている」とか言われたものだ。後者は「いいことをしたときに誰かが誉めてくれなくても神様が見ている」という言い方もしていたので、単純な地獄に落ちる的な教育ではなかったが、それだけではないかもしれない。時代劇で切られる役の脇役のお侍とか見ると「ああ!この人にも妻や子供が!!!」などと思って単純に勧善懲悪な物語には乗れなかったのも、なんでそうなったのか判らない。けど絶えず弱者へのまなざしというか自分も含め弱者なので、「人にされて嫌なことは自分はするな」と教えられた。そういう形で「他者への想像力を働かせよ」とはよく言われた記憶はある。
そういえば子供の頃、近所で猫をいじめていた男の子がいて、私と妹は口先で「やめなよ〜」といいながらもそれがどうなるのかの好奇心が勝ってしまい積極的に止めずに観察していたことがあった。そのとき近くのアパートから知らないおばさんが飛び出してきて私達はこっぴどく叱られた。好奇心を持ってしまったことの罪悪感が、それで救われた。怒られることで救われたと思う。あの男の子も我々も同罪であり、そして自らの残酷への好奇心に怖れを抱いた。確実にその残虐性は自分の中にある。それを知ることも大切ではあるとは思う。