タリウム女学生について考えてみた

週刊誌に母親を毒殺しようとした女学生のことについて色々出ていて考えさせられた。同じような感覚を自分自身も持っていた記憶がある。小学生の頃は絵描きなどになるという夢はさらさらなく科学者になりたかった。虫の標本を作り、「実験」が好きでフラスコらやアルコールランプやら試験管で何かを「実験」して遊ぶのが好きだったこと。解剖という行為にあこがれたこと。(但し結局一度もしたことはない)そういう話を出来る友人は周りにあまりいなかったこと。あるいは自己の中にある自分というものが嫌いで、相対化するために中性的存在を意識していたこと。重なるような感覚を彼女に見る。
しかし違っていたのは、なんだろうか?友人の有無かもしれない。科学の話を出来る友人はいなかったがそれなりに友人はいた。やがて中学に入ると同時にそれ以外の夢中になるものが生まれ、同じ趣味を語れる友人も出来た。ロックミュージックを聴くようになり、科学のことは忘れた。ついでに成績も激しい下降線を辿り、科学と物理は常に赤点な人になった。

タリウム事件、高1女子の精神鑑定へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051114-00000415-yom-soci

同じ日に同級生を滅多刺しにして殺した男子学生のニュースも流れていた。こうした一線を越えてしまう瞬間とはなんだろうか?この男の子は好意を持っていた被害者に冷たくされたという理由で憎しみに至ったようだ。愛情の一方的な押し付けである。
こういうニュースを聞くと他者と自分との間にある関係性というものを考えさせられる。
先日、価値の多様な社会における価値のぶつかる時ということについて書いた。フランスの暴動の背景にあるマグレブの人々の価値観とフランスの法に対する価値観や、人権という観点から見た価値観と伝統という観点から見た価値観の相違。皇室規範を巡る問題。靖国を巡る問題。歴史認識の問題。これらの相違も、或いは他者と相対したときのすれ違う価値、議論になったときのお互いの主張の伝わらなさ。それに対して生じる苛立ちなどから起きる衝突。こうした他者の価値と自らの価値の相違によって起きる幾つかの現象。
ユリアヌス先生が議論における勝ち負けのことをブログで書いていたが、人間の本性には自尊心というものがあって、これはある種の逃れられない煩悩として存在する。誰しもが持つその自尊心を侵害されたとき人は傷つく。傷ついたときにどう応答するかは千差万別ではあるが、ある人は激情として発出し、ある人は内向きへと向かい、ある人はそれ自体を屁理屈で無価値化する(←「阿Q方式」と個人的に命名している)それらは自我を守るための緊急的措置として働くのではあるが、克服しようとする過程で他者を巻き込んでしまう場合があり、そこに他者という存在の位置をその人がどう位置づけているのかが問われる。件の男子学生は刺殺した女子学生という一人の独立した個を意識の中である種の人形、思い通りになる奴隷の位置に置いていたといえるかもしれない。それは女児を9年も監禁したあの犯人に顕著である。

最近なんとはなしに「韓国人につける薬」とかいう本を購入して読んだ。あちこちで話題になっている本なので一応目を通してみようと思った。韓国人の性格の特性について書いていたが、自尊心が人一倍強い民族として定義されていた。それが侵害されたとき、激しく憤る(火病になる)というが、まぁ、どんな民族であれ、発出する方法が違ったり、発出する機会が違うだけでそのような特性は内包していると思う。
この自尊心を構成するもの。アイディンティティを自分の中でどう位置づけておくのか。
そういえば件の女子学生はそのアイディンティティの置き所がいまひとつ見えない。男子学生には見えるのに。やっぱり彼女は阿Q方式なんだろうか?