マッコイ博士のところで少子化の問題が話されていた。
http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20051108/p1
いくつか気になるキーワードがあったので、コメント欄で応答するより、こちらで新たに立ち上げてみようかと。
猪口大臣と数名の対談の話が出ているマッコイ博士のレポートを先ず読んでいただけたら。
ここで、猪口大臣は女性の社会進出とその支援を力説し、他の殿方はかつての日本的な社会構造(女性は家に)を基本にすえた方がいいと主張する。
どーも、どっちの言い分もそうそうと思いつつも納得できない。私自身女性でしかも独身で子供もいなくて仕事をしているわけで、ここで女性は家にいるほうが少子化の問題が解決するなどという一方的な言い分もムカつく。私自身今の仕事に自負心を持っているので一方的にやめろといわれたらムカつく。しかしだからといって、やはり子供を育てるなら家にいてきちんと子供に対応したい。亭主元気で留守がいい。と思う自分もいる。子供を育てるというのはわたくしにとって自分の仕事とはたぶん比べ物にならないすごく神聖なことのように思っているので、だから当然子供が出来たら子供優先にするだろうことが想像つくのだ。そういう自分が想像がつくので就職しないで、家でも出来る仕事(絵描き家業)を選んだわけなのだが・・・何故だか未だに独身である。家でする仕事ってのは出会いが少ないんだよ。
なもので、どっちの意見もよく分かるのだが、心中、複雑である。
わたくしのある友人は出版社で編集をしていた。音楽業界のだんなの仕事を支えるため彼女もバリバリと働いてきた。そして子供の誕生。喜んでいたのもつかの間、育児休暇を終えしばらくしてからリストラされた。
やはりある企業に勤める女性は途中の段階でキャリア組になるか、そうでないかの選択を迫られた。これは女性にだけだったそうだが、子供がで来たのち転勤を受け入れられるかどうか?ということでキャリア組になるなら転勤せざるを得ない。彼女は当然キャリア組になることは選ばなかった。のちに子供を生み、今もまた働いている。こういう選択を先にさせるのはもしかしたら賢明かもしれない。企業としても対応を考えやすいからだろうし。ただ・・そうか女性の場合、夫の転勤についていくという光景は普通だけど、男性の場合、妻の転勤についていくという光景はあまり聞かないなぁ。中には別居している夫婦もいるよ。こういう場合でも子供は難しくなる。
ある友人は子供は作らないと宣言した。彼女はキャリアをとった。というのも夫の仕事は建築関係でフリーなので安定収入がない。不安定すぎるがしかし資金も必要で、男が一生涯を賭ける仕事に彼女は影からそういう形で支えることにしたのだ。今は安定しているようだけど、子供を産む時期は過ぎてしまった。
私の妹は日本でもうやせ細るほどにバリバリ仕事をしていたが、結婚と共に旦那のいるアメリカに移住した。妹もわたくしと同じで古い考えなので夫に従うという価値の持ち主ではあるのだが、それでもしばらく鬱になっていた。あまりの生活環境の落差。フリーランスなので仕事は細々と続けてはいるものの(つまり仕事のときだけ日本に出張してくる)、いきなりほとんどの日常は主婦の生活になり、しかも旦那の生活はなにひとつ変らず自分だけがものすごい変化を迫られたわけである。アメリカには妹の友人は当然少ない。夫はアメリカで育ったからアメリカに根を生やしているので何の不自由もない。言葉も思うようにいかない土地でしばらく家に篭って話し相手は庭に来るリスだけ。という生活をしていた。しかし彼女が克服出来たのは、そうした妹の喪失感を夫が知っていたことにある。そうした妹の気ふさぎの要因を彼は知っていたので、共にいるときは妹の気持ちを汲んであれこれと心を砕いていた。また彼は一人暮らしが長かったので、妹の苦手な料理を彼が手助けしている。妹は掃除が得意なので、今は家事をそのように役割分担して生活しているので、妹としても夫に対して不満どころか感謝しないといけない心理にいまやある。
これが「来て当然」「家に入って当然」という相手だったら、しばらくしたら離婚していたかもしれない。だから上記の対談で殿方が唱える「女性は家に入って当然」的なふんぞり返り方には違和感を感じるのだ。

女性が社会進出すれば、それは大臣になるような女性もいるわけでしょうが、本質的には女性の社会進出というのは、たいがいは、言葉悪いけど、新しいプロレタリアートというか、新しい賤民階級というか、安月給のパート女性で、面白くもない仕事をさせられて、そんな事して、家に帰って活力ある家庭生活なんかできないですよ。

女が社会進出しても、男が家庭を守っても良いんですよ。ただ、基本原則として、やっぱり男は女・子供のために外に出ていって頑張るのが基本原則でね、女はね、男を支えるべく家を守るのが基本原則、いろんなこの入れ替えはこれありますけれどもね、その事がね、まるで問題あるかのように・・・

・・・という西部という人の意見はかなり酷いものの見方だとは思う。猪口大臣でなくとも私も怒る。結婚したら家庭に入り、子供を持ちたいなどと思ってる古い考えの私でも怒るんだから。

ただ、マッコイ博士が指摘するとおり、女性の家庭での仕事の評価が低すぎる要因は教皇ベネ16なラッツィンガーも指摘していた。「いまや女性は本来女性が担っていた仕事を搾取されている」という言い回しをしていたが、まさしく主婦の仕事を堂々と威張ることが出来ないような、家政という仕事を一段低く見るような社会価値に疑問を呈していたのだがそれはその通りだと思う。
ただ、これは日本の男性に顕著なのだが、家政を低く見るのか知らないが家のことをしない。家のことを軽視しすぎている。もう仕事以外の事は家に帰ったらナニもしない。これも家政を低く見ている現象のひとつでもあるとは思う。忙しくて疲れて帰ってきて出来ないのは仕方がないが、家政というものを低く見ていない意識があるなら、家にいる女性の背後からの援護に感謝する意識があるなら、夫婦というものはうまくいくのだが、どーも家のこととは日常のこと過ぎるのでその意識が薄くなってしまいがちである。「お前はいつも家にいていいな。俺は大変なんだぞ」などという言い方は言語道断だ。本当はどっちも大変だったりするのだ。特に家政というルーチンワークをやり続けることの精神的な大変さというのはかなりだと思う。(私自身、他人の面倒となると、この歳でそれに向かうは実はかなり大変だったり・・・)
イギリス貴族などは家政を任せるために人を雇う。執事がいて料理人がいて、家の面倒を見る女中がいて、庭師がいる。家政を完璧にこなすにはそうしたプロが存在するように実はかなりの知恵と熟練が必要な仕事なのだと思いますよ。

後半のニートフリーター問題へと飛んで、なぜこうした若者が増えたのか、これまた喜入先生に聞いたところ

学校も社会もそうだが、きれいごとに終始してしまっておかしな教育がなされてきたということ。個性はすばらしい、個性を伸ばさなければならないと言って、子供を自由にさせすぎたり、自己肯定をしすぎて、子供を変化させようとしないような教育が問題だと言っていた。

ここについては、この先生の言う通りだと思う。

わたくしは「自分探し」という言葉が嫌いなんだが、実は人は誰でも自分は探したい。しかしそうもいかない社会というものがあってどう折り合いをつけていかねばならないかというのを学校で学ばされるわけです。少なくともわたくしの場合かなり外れた子供だったので親が苦労したらしい。自分ではよく覚えてはいないんだが、今でいう多動性児だっただろう。浮いている自分というものを如何に社会という環境と折り合いをつけていくか、自分自身もかなり苦労したし、親も先生も色々と心を砕いてくれた。母の実家でもある京都の家に預けられ厳しい大人ばかりの中で生活していたときもあった。しかし抑圧されたという意識はない。というかそもそも抑圧が効かないとんでもない頑固なガキだったのでかなり親は苦労したと思う。しかしそれをしてもらわなかったらただの駄目人間になっていたと思う。自分というものは社会のルールの中で見たときに初めて見出せたりするものだったりと思いましたよ。
昨今、海外などに行くと自分探し系の若者が多いのだけれども、何処に行っても何処にいても、結局環境で見つかるものでもない。そもそもが「自己実現のため」っていう言葉自体が実はよく分からないのだ。わたくしなどは職業柄、自分探しってモノをそのまま仕事にしてしまっているようなものだ。なもので「いいわねぇ自分の好きな仕事が出来て」とか「自分のやるべきものがあっていいわねぇ」などといわれるが、実のところ一番調子のいいときというのは実は失恋したときとか、誰かと別れたあととか、不幸が続けざまにおきているようなときとか、すざまじい状況じゃないとダメダメだったりする(わたくしの場合)だから精神崩壊の寸前まで行きそうになるときも度々ある。しかもそういう精神を保つために断食に入ったり、駄目人間をとことんまで極めてみたりするので、素人にはお勧めできない。
ただそうした「自分探し」ってことを仕事をしている者としていえるのは、結局は、何処にいても何処で生活していようと何をしようと人間は永遠に自分を捜し求め続けるのだと思うのだし、一番自分自身を見失っているのも自分なんだと自覚するだけでもある。だから「自分探し」っていうものに終着点などない。一生かけて探し続けるものである。
自己実現」ってのがよくは分からないというのは、実現など実はしないんじゃないか・・永遠に追い続けるだけで、今に満足しないのが人間の本姓だと思うからなので。
自己など肯定できないことも多いということも教えないと生き延びれない場面も多いのだとつくづく思うのですよ。

そういえば先だって「熟年離婚」というドラマにものすごい違和感を覚えたと言う話をしたが、その離婚を申し出る奥さんの望みがまさに「自分探し」であったことですね。これについては、マッコイ博士の

私が考える少子化の理由は、価値観の変化だと思う。家族や子供よりも自己実現に重く価値を置く若者が増えたという事だろう。家庭や子供に束縛されるよりも、自分の自由な生活を満喫したいと考えている人が増えているに違いない。そのくせ、何をすれば自己が実現できるかもわからず、いつか天から自分にふさわしい仕事が降ってわいてくるかのように考えてニートになったり引きこもったり。

・・・という批判が当てはまると思うのですが、件のドラマの奥さんはこのニートな若者と同じ価値観にあると思うのです。あのドラマが自己実現を肯定的に捉えているのか、否定的なのか結論を見ないとわかりませんが、なにかそういう価値を提示しているという時点で多くの人に「自己実現」病理があるのかもしれない。