ハンセン訴訟3

昨日からハンセンに関する色々な資料を読んでいる。やはり厚生省がまとめた資料が一番充実している。
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/
ここにはわが国のハンセン対策の歴史や問題、各国の状況なども含め色々な報告がある。読み進めていくうちにやはりわが国の過去のハンセン病対策は批判されて仕方がなかったというしかない。
ヨーロッパでは14世紀以前は多くの患者がいたそうだが、やがてそれ以降、患者の数は減っていく。しかしアジア圏では多く、日本にも昔から多くの患者がいた。ヨーロッパ中世における患者はやはり隔離された空間に存在した。聖フランシスコの逸話などにも見られるように患者は恐ろしい化外の存在とされ人との接触は禁じられていた。日本、あるいは朝鮮半島、中国などにおいても、これらの患者は忌避され続けてきたが、ヨーロッパにおいてもアジアにおいてもこの病への解釈は遺伝的な病であるという考えが多かったようだ。その為、日本に於いては患者を出した家は社会共同体から忌避される為に家族が患者を隠したり、家から追放したようである。患者達は彼らの作った集落などで暮らし始める。しかしこの時代、こうした患者達は穢れと同時に聖なる存在としてみなされた。患者達は勧進をし生計をしのぐ。人々は彼らを菩薩の変化と見做し喜捨をする。巡礼路には彼らの姿が多くあり、こうして差別される存在でありながらも一応は社会救済の措置は機能していた。こうしたことはヨーロッパ中世でも多く見られた概念で、聖フランシスコの逸話を見るまでもなく、ハンセン患者をイエスと見做し、日本での概念同様、聖と忌避される矛盾した存在であった。彼らを世話をすることは聖なる務めでもあり、修道院の役割でもあった。
こうした被差別者ではあるが社会共同体の一角を担う発想がやがて社会からの排除、無くすべき存在などという更なる無情な発想に転じていったのは、皮肉にもハンセンがその病原菌を発見してからであった。それ以前は遺伝病という考え方が強く、感染力のある病であるとみなされてはいたもののそれは弱い感染力だとも認識されていた。日本でも明治以前の医学者達は様々なそうした見解を持っていたようだ。
しかし感染症であることが確認されると同時に隔離して治療するという方法へと移行してゆく。この時代日本の医学者がヨーロッパなどに多く渡り近代医学を学んでいた時代でもあった。しかし当時はチフス結核、その他の感染力の強い伝染性の病の対策に追われ、ハンセン病患者への対策はあまり重視されていなかった。しかし日本のハンセン氏病患者が放置され徘徊していることで他の国から批判されていたようだ。
世界の多くの実情を知るにつれ「ハンセン氏病患者は後進国であるインドなどに多く、ヨーロッパではほとんどその姿を見ない。わが国にそうした患者が多いことは恥である。」などと考えたようで、近代の先進諸国へと変容しようと渇望していた当時の人々にとってハンセン氏病患者は後進国の証と見做されることになってゆく。この時代の証言には「ハンセン氏病患者の存在は国辱」という考えが多くなっていくのだ。こうした考えがやがてハンセン氏病患者に対する強制的な施設への収容へと繋がっていく。
(いったん、筆を置きます)

◆◆

この時代、レプラ菌が発見されたとはいえ、日本では未だ遺伝的なモノであるという認識を改めることは出来なかったようだ。またヨーロッパなどでも積極的な隔離政策が提唱される。

1、 ドイツ・アイスランドノルウェーおよびスウェーデンにおいて得た良好な成績を考慮するとき、侵入を受けた国では、進んでらい患者の隔離を実施するよう希望する。
2、 らい患者の健全な小児は、できる限り早くらい患者である両親から遠ざけ、一定の監督のもとに置くことを切望する。らい患者と同居したことのある人は、時々専門医の検診を受けなければならない。
3、 らい患者が、らいの伝播に特に危険な職業に従事するのを避けさせるように望む。ただし、いかなる場合であっても、またどこの国に置いても、らいに罹った乞食および浮浪者を厳重に隔離する必要がある。
http://homepage2.nifty.com/etoile/hansen/frame.html
「1909年にノルウェーのベルゲンで開かれた第2回国際ハンセン病学会議における勧告」

ノルウェーでは家族のいるものは在宅治療、貧困層や浮浪層などは国立の施設に隔離して治療するという方式を採択していたが、上記の勧告ではハワイ島で見られるような全ての患者の完全隔離方式を採択している。日本はこの勧告に従って動いていく。(アメリカもこのような完全隔離政策を採択し、離島に患者を収容する施設を建設してゆく)

◆◆キリスト教の功罪
日本では早くからキリスト教関係者がハンセン患者施設の建設をしていた。上記に紹介したとおり浮浪するにまかせ、治療も行わない日本政府はヨーロッパから批判されていたが、やがてそのヨーロッパやアメリカなどから宣教師達がやってきて、私立ハンセン患者収容施設を建てていく。また日本の仏教会もそれに連動して私立の療養所を建立していく。
これらの私立ハンセン患者施設は、いわゆる強制入院や劣悪な労働といった現象は見られないものの、患者の慰撫を目的とするものが多く、治療に熱心と思われないということが報告されている。
特にカトリックやリデル女史の聖公会などにおいては修道院的なものと施設を見做し、修道者のような生活をさせていた。信仰のあるものにとってそれは自主的に受け入れたいものではあるだろうが、どうなのかという疑問は残る。ただ、病を信仰の発想で自らに受け入れてゆく、いわばユイスマンスが「腐乱の華」で描いた聖リドヴィナのごとき「自らの病は、神から与えられたものであり、この苦しみは十字架のイエスのくびきを担うものであり、多くの人の救いへと繋がるのだ」という発想がらい患者にとっての精神的な救いとなったかもしれない。しかし逆にそのようなうちに向かう発想が世間へと出て行こうとする意欲を奪って言ったという批判も成り立つだろう。
キリスト教カトリックなど)は多くの患者の現状を確かに救ったかもしれないが同時に自立の機会を奪い、「隔離されるという現象」を修道生活とみなすがごとき肯定的に受け止める発想に一役買っていたともいえるのである。

ここを読んでいた、ある司祭から以下のメールを戴きました。
(一部個人情報がわかる箇所は省略してあります)
また関連本を紹介してくださいました。

ハンセン病とキリスト教

ハンセン病とキリスト教

ハンセン病キリスト教』はおもしろい本です。
ちょっと批判的な見地から書いてあるし、なにより国策としての隔離
政策とキリスト教との関係が見えてきます。

この本との関連ですが、
小川正子(1902-1943)の「小島の春」はご一読を。結局このベ
ストセラーのおかげでハンセン病の隔離政策の悪い点が隠蔽されたとい
うのが荒井の論調です。

問題は隔離政策がより加速されたのは戦後の米軍統治下においてで
す。つまり小島の春などのサナトリウム文学のおかげでハンセン病患者
たちに比較的陽があたるようになってきた。
しかも戦時中の施策で、彼らもまた国民としての銃後を守る義務を負
い、いろいろな労働に従事するようになる。ですので間接的に社会との
接点は戦前のハンセン病患者にはあったわけです。
戦後の占領軍の施策については、まだまだ解明しなければならない点が
あるでしょう。いわゆる患者を強制的に連行したのも戦後の方が多かっ
たと聞いています。

現在、ハンセン病は外来で治る病気です。私の聞いた範囲ですと三歳ま
での間に菌に感染、その後十年を経て発病だと聞いています。
ご承知の通りダミアン神父はモロカイ島でハンセン病の患者たちと一緒
になりたくて祈り続け、発病した。幼児期の感染が主ですから、彼が
祈って発病したこと自体が奇跡だといえるでしょう。

また、ハンセン文学として北条民雄氏も紹介してくださいました。
青空文庫で読めるそうです。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person997.html