ハンセン訴訟2

昨日、なんとなく聞いたニュースに釈然としないと、とりとめもなくハンセンに関して書いたが、一夜明けた今日、あちこちのブログやニュースで取り上げられていますね。
木走兄も「エチゼ・・・、いや、超弩(略)海月1号」ネタに引き続き今度はハンセンを取り上げておりました。

ハンセン病補償法訴訟報道についての一考察〜混在する二つの贖罪意識
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20051026

いつものように多くのメディアで取り上げられた記事の考察や、また他の資料を取り上げ丁寧に検証しておられます。

この問題を複雑にしている一つの要因として2つの贖罪意識が混在している点は明確にしておく必要があると思われます。

 2つの贖罪意識とは、かつて日本が犯したとされる旧植民地に対する差別的諸施策に対する贖罪の意識と、当時日本だけでなく世界中でおこなわれてたハンセン氏病患者に対する非人道的非科学的隔離政策に対する贖罪の意識です。

木走さんが上記のごとく指摘しているように、韓国のハンセン患者の問題では二つの「贖罪」の問題が混入して語られているものが多い。
例えば・・・・

韓国人元ハンセン病患者 証言過酷な半生 
http://mytown.asahi.com/tokyo/news01.asp?c=12&kiji=119
日本の植民地時代に朝鮮半島沖の小島「小鹿島ソロクト」にある療養所に強制収容された韓国人元ハンセン病患者が、政府の補償を求めて裁判を闘っている。今でも小鹿島に暮らす蒋基鎮チャンギジンさん(83)。不自由な体をおしてたびたび来日、法廷で自らの体験を証言しながら補償を強く訴えている。
(芳垣文子)

上記に続き、朝鮮半島における韓国の患者の辛い過酷な状況がここで伝えられる。

韓国・慶尚北道の農家に生まれた。発病は15歳の時。ある日、日本人の警察官がやってきて、小鹿島にある療養所へ入所するように言われた。「3年で治る。着るものも食べるものも心配ない」。1941(昭和16)年、20歳の時、トラックと船に揺られて収容された。

 入所後待っていたのは強制労働だった。れんがやかます(むしろで作った袋)づくりに明け暮れ、道路などの建設にも駆り出された。ざらざらのわらを扱う作業で、手は傷だらけ。星を見ながら働きに出て、星を見ながら帰って来る日々だった。与えられる食料はわずかで、米には虫がわいていた。

 毎月、日本人看護長に神社を参拝するよう強要された。入所間もなくキリスト教に入信した蒋さんは拒否。事務室に呼ばれ、こん棒で看護長に何度も殴られた。気を失うと冷水を浴びせられ、さらに監禁室に入れられた。セメントの冷たい床、布団はない。食事は握り拳ほどのおむすびが1日に2個だけだった。

 いったん部屋に戻され、今度は、理由もなく病棟に行くように言われた。待っていたのは断種手術。麻酔はなく、言葉では言い表せない痛みに耐えた。

 手足の傷は十分な治療が受けられずに悪化、手の指はすべて失い、両足も切断して義足になった。

悲惨な光景である。ここでは当時、世界中のハンセン患者が受けた過酷な扱いと同じ光景と共に「日帝」的価値の看護人に苦しめられた光景とが混在している。これらは当然、分けて考察されねばならない。昨日紹介した韓国のハンセン患者の実情を記したものにも多くのこのような光景の混同が見られるのですが、当時の日本政府がらい(ハンセン)患者に対し行った「強制収用」は朝鮮のみならず、日本人でも同様の扱いを受けていたのです。
http://www.mognet.org/hansen/korea/index.html
このサイトでは韓国の患者さん達が辿った労苦の歴史などが紹介されています。日本の植民地時代以前から、朝鮮半島ではハンセンの患者さんは差別を受け苦労していたようです。またこうしたハンセン患者さん達が反社会的な組織を作り、自活手段にでていた光景もわずかに紹介されています。家族からも社会からもはみ出さざるを得なかった患者さん達が生き延びるためにやむを得ず選んだ手段はそれしかなかったのでしょう。日本に於いても歴史的にこうした患者さんの立場は同様で、やはり一般社会から追い出され独自の社会をつくるしかなかったようです。
http://www.mognet.org/hansen/japan/shinshu01.html
↑ここでは「らい」という言葉はそもそも身分を指すものではなかったかなどの考察もされています。

また、南西諸島にはハンセン患者が多かったために多くの施設が作られたのですが、そこでも強制収容という措置に多くの患者さんが従わなかったための混乱などが見られたようです。沖縄では多くの患者さんは自宅に戻りたがり、政府は隔離したがるという、そもそものこの「隔離政策」がやはり今の価値からすると人道的ではなかったわけです。ただどうも沖縄や南西諸島の患者さんの記述を読むと、患者さんの存在が島民にとってどうであったか判らないのですが、自由に家に帰っていたりしたところを見るとこれらの島ではあまり差別的扱いは受けていなかったようです。もっともあまりの数の多さや狭いコミュニティゆえに本土ほどの差別を受けなかったのかもしれません。それゆえに南西諸島でとられた措置は患者さんにとって苦痛であったかもしれません。

(以下、続くかも・・少し個人的にハンセンについて追ってみようと思います。)