教会芸術

ぐりちゃんが「福音宣教」というカトリックのギョーカイ誌にドミニコ会のカルペンティール師の芸術に関する文章が出ているから読めというので読んだよ。流石、ベアート・アンジェリコを輩出した会だけあって、芸術に一家言ある神父がいますね。
で、ユリアヌス先生がブログで取り上げていました。

典礼の美学へのノオト(13)
http://iulianus.exblog.jp/i9/

ユリアヌス先生の文章を引用しながら、コメントしていきますが、非常にまとまっているので、本文を読んでください。あと「典礼の美学へのノオト」シリーズはわたくしも激しく同意見なので読んでみてくださいです。

この中でカルペンティール師は宗教芸術には二種類、すなわち「個人的な宗教芸術」
と「典礼的な宗教芸術」があると指摘し、前者が芸術家自身の表現であるのに対し、
後者は教会や修道院などの共同体のための表現であると言う。つまり、教会や修道
院などにおかれるものは「典礼的な宗教芸術」でなければならない。

これに関してはパパ・ラッツィも「典礼の精神」で語っておりましたね。イコンなどはその典型ですが、ラッツィンガーに言わせると、ルネッサンス期の芸術は「個人的な宗教芸術」の分野に入るようです。たしかにルネッサンス美術の多くは画家の個人的な証と取れるような作品は多いですね。ミケランジェロの作品などはそのいい例だとは思います。それが典礼的かどうかとなると、かなり個人的な感覚によりますでしょう。アレをうるさいとする人も中にはいると思いますし、彼の絵によって祈りに導かれる人もいるでしょう。ただ「教えのための芸術」としての効用としては一級の絵画であるとは思います。ラファエロなども同様ですが、カール・バルトなどはラファエルのような甘い絵画は祈りの絵ではないとみなしていたようですが、彼はグリューネバルトの十字架上のイエスの絵を評価していた記憶があります。しかしカルペンティール師は苦しむようなイエスの絵というのはかなり個人的なものだとみなしているようで、なにが典礼的で、なにが個人的なのか、意見の分かれるところではないでしょうか?

最後に彼は日本の宗教芸術に関して三つの提言を行っている。1「甘いものに注意」、
2「宗教芸術制作の促進」、3「信徒の芸術理解の深化」である。
 1の「甘いもの」とは、彼が言うには、「色白美人のマリア様が胸で手を組み、斜め
上へ目線をあげている御絵」のようなものを指している。彼は宗教芸術は「もっと力
強いもの」と言う。

カルペンティール師は女優をモデルにして書き上げたようなハリウッド映画的マリアの絵がお嫌いなようです。私も嫌いです。笑っちゃいますが、何故か好きな人が多いですね。少女マンガみたいで嫌なのですが、しかしこれもかなり個人的な感覚に左右されるので難しいです。甘いというならば、アンジェリコの絵もフィリッポ・リッピの絵も相当に甘い。

2に関しては、日本で宗教芸術の制作が行われるようになれば、「外国から「甘い」も
のを輸入しなくても済むようになる」と述べている。

予算の問題がありましょう。かなり現実的なことになりますが、よい宗教芸術家を育てたいならば、それなりのパトロンに教会がならないと無理でしょう。今の日本の経済状況では無理ですし、司教が絵画を経済観念でしか判断しないような状況(森司教が「バチカンの絵画を売り払って貧者に分け与えよ」といったユダ発言事件など)では「宗教美術の制作」は贅沢行為とみなされるでしょうが、それ以前にその予算すらないと思う。輸入の「甘いもの」は予算的に安い。

3に関しては「芸術を見る側にも勉強が必要」であり、「それは文章によるのではなく、
絵を見ることによらなければならない」ということである。

ユリアヌス先生は聖職者側の芸術教育について取り上げています。こういう問題はかなり難しく、教会の運営が信徒に任されている以上、その教育をどのように行うのかという問題も含め、場合によっては司祭が口を出しすぎるなどという反発もくらいかねない。げんにS教会の問題においても、そうした司祭側の指導が行き過ぎであるという批判も聞かれるわけで。司祭は神学のプロであるという敬意がどこか信徒側にもない。悪平等という現象により文化がより低いところに流れていってしまうという現象を生んでいるのが今の教会でしょう。音楽のプロが口出し出来ない聖歌隊というのが身近にありますが、「下手でも気持ちがこもっていればいい」という考えが蔓延しています。アマチュアリズム=平等性の賜物というのは社会にも見られますが、教会に於いてはより顕著だと思いますね。しかし本当に平等かというと、「声のでかい奴の勝ち」状態で、信徒側に強い人がいるならその人に、司祭が強ければその司祭に、という感じで運営されている。結局「平等で自由」な社会は弱肉強食の社会だったりしますね。
かつては職務の分化という考えから、聖域のプロである聖職者の世界は世俗から独立していたし、聖職者はだからこそかなり高度な知識を要求されていた。(なかには馬鹿垂れも多くいたようだが)少なくとも日本にやってきた宣教師達の広範な知識には驚かされる。昨今は個々のさまざまなものに於いて信徒のほうがすごい知識を持っているので、それをどう生かすかというプロデュースする立場になるのだろうが、それでも勝手に行うと、怖い信徒会のお局にケチをつけられる可能性が高いので、難しい時代だとは思います。我が母教会で師匠がかなり苦労していたのを横目で見ていたのでついつい懸念してしまいます。
しかし、教会だけでなく日本の社会はどちらかというと素人性を好みますね。芸能人の素人絵画はもてはやされるが、他には興味ない大衆とか、カラオケの登場以降、歌の下手な芸能人が増えたとか、芥川賞直木賞などで年齢が採り沙汰されるとか、結果の素晴らしさよりも、なにか違う評価に興味がいっている社会が育んでしまった感覚でしょうね。プロの技などあまり評価しなくなっている。プロの技が絶賛されるのは勝ち負けのあるスポーツぐらい。音楽でも、美術でもプロはうまくて当たり前的に流したりしてしまう。まさにオルテガが憎む大衆の暴力がここにあります。
ただ、芸術は感覚的なものであるが故に、答えがこうであるという確固たるものがない。だからこそ教会に於いてはその最終的判断を神学のプロ(司祭とか)に任せたほうがいいと思うのですが、「平等性・信徒の使徒職」のもとに、そういうのまで素人判断が入り込み「甘い」ものが蔓延していくんでしょう。第2バチカンの功罪の「罪」の部分がこういう状況を引き起こしていると思いますね。第2バチカンの精神は大変に素晴らしいのですが、同時に己の分際を見極めるのが難しいのも人間であると思うのです。