死者と生者の間にあるもの・6

ケルトの神話によると海の向うに死者の集う島があるそうだ。アーサー王伝説ではアヴァロンと呼ばれるこの島に戦いで傷を負ったアーサー王は運ばれていく。これは古いケルトの神話によって形づくられている。時代が下がるとアヴァロンはグラストンベリーだという伝承も現れる。
死者を船に乗せて送り出すという光景は、エジプトにも見られる。ピラミッドにはこの死の船がある。琉球の伝承ではあの世はニライカナイと呼ばれる海の向うにあると信じられている。ジム・ジャームッシュの映画「デッドマン」では亡くなった主人公を彼の魂の導き手であったインディアンが船に乗せて送り出す。
島に住んでいると、水平線の果ては自らの住む宇宙と切り離される。わが家からは伊平屋島が見えるのだが、地面が繋がっていないせいもあり、その島が自らの日常と切り離された場所に映る。私の祖母は今、島の施設にいるのだがわが家とはほぼ反対の海岸に立つこの施設から見える海を眺め、海を挟んで私の住む家が見えると主張する。物理的に無理なのだが、祖母はそう信じて疑わない。魂の目で見ているのかもしれないと思う。
自らの日常と切り離された世界。
宗教はそういう世界をもつ。その離れた世界にもやはりこの世ならざる者たちの営みがあると信じている。
風の谷のナウシカ」という漫画に「クシャナ」という姫が出て来る。この姫は戦いに身を投じ、自らの軍団をもつ。彼女の兵らが兄弟の王子達の奸計によって激しい戦いの中で死んだ時、この戦いの姫は自らの髪を切り「ヴァルハラで会おう」と約束する。ヴァルハラは北欧神話に出て来る戦士達の憩う宮殿である。戦場で勇ましく戦った兵士達の魂をヴァルキリーと呼ばれるオーディンの配下の女神達が連れに来るのだ。そしてこのオーディンが支配する宮殿で最後の戦いラグナログに備え鍛練を重ねるという。そう、それはゲルマンの英霊達の住まう処なのだ。
今日、町内組合からの会報が届いた。その中に戦没者追悼式の集いの案内が書かれていた。遺族へは県から上限があるものの経費が出るとある。交通費だけで消えてしまう金額だ。丁度、靖国神社の問題があちこちで話されていたので、目に付いた。場所は武道館。九段だ。靖国にほど近い場所だ。
靖国はいわばヴァルハラである。未だ遺族達に援助してまでも慰霊の習慣をもつその精神の影にはクシャナ姫のように自ら直接的に責任を負うべき兵の死への負い目があるのだろう。そして兵たちはヴァルハラで再び会うことを希望として死に向かった。彼らとはそういう約束なのだ。これらは非常にナイーブな精神に拠って成り立っている。
靖国の問題は難しい。正直、結論が出せない。物語の中のクシャナの気持ちは痛いほどわかる。
また、負けるということは、責任あるものがその罪を負うことになる。これはもう仕方がないことだ。「負ける」というのは悲しいかな、たとえ不条理があったとしてもそれを認めるしかないことなのだ。そして我々はその責任あるものが罪を負ったから今がある。だから彼らに負い目がある。「道を誤らせた者」に罪を負わせ知らんぷりできるほどには冷酷でいられない。誤ったのはまた我々もなのだ。それは実は我々の子供の時からの概念でもあった。現代ほど左翼教育が強かった時代でもない。(しかも親父などは当時から右翼だ。)でも過ちの認識は当然のことだと思っていた。そして日本は二度と戦争をしてはいけない。そう思っていた。しかしここへ来て、隣国から全然反省すらしていないかのように問われる。またそれに呼応して買い言葉で応じるものまで出て来る。どんどんと「反省をしない国」というレッテルが貼られ続ける。こんな印象操作をされるのはまったくおかしなことだ。

そういえば以前はカトリック教会で8月に千鳥ケ淵まで歩いて行き、そこでミサを立てるという習慣があった。しかしそれはいつの間にか無くなってしまった。イグナチオで追悼式をするという。千鳥ケ淵でやることに意義があるようにも思っていたので、なんとなく淋しい。