教勢

今回は激しく身内の問題です。興味ない方はすっ飛ばして下さいです。



カトリック信者は日本には少ない。とっても少ない。でも40万人ぐらいはいる。
しかも微妙に信徒数は増えているみたいです。とはいえほとんど横ばいですが。
以下は、日本人の信者さんの数の推移です。

     1992年  1996年  2001年  2005年
札幌   16605  17575  17878  18205
仙台   11487  12030  11184  10947
新潟    7226   7545   7467   7707
さいたま 17136  18710  19162  19814
東京   78321  83872  84962  91586
横浜   46735  50234  52717 53512
名古屋  23030  24233  24703  25380
京都   20739  21197  19634  19194
大阪   54307  52525  55723  55732
広島   20721  20637  21461  21702
高松    5369   5684   5445   5407
福岡   26557  31189  31442  31600
長崎   69486  70010  68870  67728
大分    5375   5703   5872   5765
鹿児島   9341   9195   9282   9527
那覇    6038   6204   6104   6119
     418473  436543  441906  449925

長崎などは減っているように見えますが、総人口数のパーセンテージでは増えています。
例えばカトペディアのデータ、1992年度版と2004年度版を比べるとこんな。
(データは2002年のもの)

      1992年  2002年 増減
札幌    0.294  0.321  +0.027
仙台    0.157   0.153   -0.004
新潟    0.145   0.157  +0.012
さいたま   0.130   0.143  +0.013
東京    0,456    0.512 +0.056
横浜    0319   0,344  +0.025
名古屋   0.195   0,204   +0.009
京都     0.298   0.263  -0.035
大阪    0.362   0.356  +0,003
広島    0.267   0.281  +0.014
高松    0127   0.132  +0.005
福岡    0.394   0,412  +0.018
長崎    4.433   4,498  +0.065
大分    0.222   0.241  +0.019
鹿児島   0.519   0.538  +0.019
那覇    0.486   0.453  -0.033

こうやってみると、増えているところと減っているところが良く判ります。概ね0.010パーセント以上の延びを保っています。那覇に関しては人口の流出と流入が激しく、元々の沖縄の方は本土にいかれることが多く、新たに入って来る方はどちらかというとサヨク系の宗教には距離を置いているような方か土着の信仰に魅かれたりする方が多い為だと思いますね。わざわざ耶蘇に入信する人もそうそういないでしょう。高松に関してののびの悪さは、司教が裁判にかけられるような案件もあり、信徒さん自身が動揺していてそれどころではなかったという結果かもしれません。仙台についてはよく判りません。司教不在の時も長かったせいか元気がないですね。
しかしそれにも比して大阪の延びの悪さや京都の減り具合は尋常じゃないです。京都に到ってはカトリック外へ流出している信徒数が多いと手元のデータにもでています。
大坂教区は人数も多く、社会活動も盛んで活発な印象を受けますが、信徒数はほとんど横ばいです。同じ社会活動が盛んなさいたまではそれほどでもないです。ですが同じ関東でも横浜や東京に比べてさいたまの延びは低いですね。京都に関しては外国人の信者数が多く、80パーセントを超えています。しかし同じく80パーセントを占める横浜教区では信徒数は延びていますから、外国人の増加と共に日本人信者が減ったというわけではないようです。

正直、社会活動にかまけているからか?と思えてしまいますが、それ以上に「共同宣教司牧(各教会に固定の神父を置かず共同で数人が持ち回りで司牧する)」というシステムが実はうまく機能していないのかもしれないです。京都はいち早くそのシステムに移行しブロック制をとった土地だと思いましたが、大阪も早かったですね。そうしたシステムは実は新たな信者さんを開拓するには不向きなのでしょうか?東京教区に関しては最近になって導入されましたが修道会の力が強く、関西のような機能を果たしていない処も多いようです。

こうした機構上の問題に関してNICEという運動が起き、内部改革に乗り出したのですが、失敗したといわれています。
http://www.geocities.jp/amsf_stm/untitled_50htm.htm
そもそもいくら器をいじっても中身に目を向けないとなにも変らないでしょう。共同司牧というやり方は、神父と信徒の間の交流を逆に奪っているようにも思えますがどうなのでしょうか?

ただ、ほんというと現場をよく知らないので、いったい現場で何が起きているのか知りたいものです。

今回は激しく内向きなネタですが、傾向としてサヨク系の強い土地は教会の社会運動が盛んなわりに信者さんの伸びが低いのは見ての通りです。教会として人々に求められていることがそうしたことと一致していないならば、一度自らを省みる必要もあるんじゃないかと思いましたね。弱い立場の人々のためになる直接的な社会活動も大切ですが、それと共に教会に集う信者さんの本音も聞く必要があるのではないでしょうか。信者さん自身が弱くされた人々でもあるはずなのに、それが省みられていないとかそういう事もあるのかもしれません。

上記のNICEの活動の一環として次のような反省の声も聞かれます。

http://www.geocities.jp/amsf_stm/untitled_57htm.htm
いままで「開かれた教会」とか「教会は社会の人と共に」と言ってきたのは何だったのか、
「一番大事なときに守ったのは紙切れだけやった」というのが彼の回心の出発になったし、彼が
教会をまち作りのセンターとしていった根本になった。教会に来た人とだけつきあって、まわり
に誰が埋まっているかも知らない、「開かれた教会」といえばバザーに近隣の人を呼びましょか、
というだけ。それが出発点になって鷹取教会には NPOが5,6個できている。「誰と共に歩むの
か」と言ったときに個人の意識だけでなく、教会がまわりにいる社会の人々の苦しみにつながっ
ているかが大きなポイントになるかと思います。

でも一方で、そういう教会のあり方に反発する信者もいっぱいいるわけです。なぜかと言えば、
仕事で日頃ゴチャゴチャしているから、教会でゆっくり祈りたい、ところが来たら NPOの仕事
でゴチャゴチャしていて静かに祈る場もあらへンやンか、と言うわけです。教会は社会福祉する
場なのか、祈る場なのかという彼らの気持ちも分かる。だから、教会がホームレス支援とか病ん
でいる人と共に、と言ったときにそこにはいつも緊張関係がある。静かな祈りがいらないとも思
わない、社会活動ばかりしたらいいか、と言えばそうではなく、その緊張関係をいつも自分の中
でも感じている。かといって、今黙想の家にいて、いつも神さまと真剣にむきあっているのも…。

多くの人がそれに気付いていながら、ではどのように?といった時に途方に暮れてしまうようです。ヴィジュアル的に魅力に欠ける教会が増えたからとか、そういうことも作用しているかもしれません。聖堂が聖堂でなくなってしまったというのを最近顕著に感じます。聖域ががちゃちゃしていては行きたいと思えません。
多くの人がそうした点を指摘していますが、聖職者にはなかなか届かない声のようです。信徒の意見をよく聞くといいながら、その声を選択しているようにも思えますね。「昔のような聖堂がよかった」という意見は「懐古趣味」とか「保守的」という言い方で退けられてしまいます。しかし本当は「祈りたい」為の装置としてそのようなものを求めているのです。また、教会外の人も過去のそのような遺産に対し興味をしめしている現実がありますね。

さて、そういう反面、外国人の延びはすごい。

http://www.jade.dti.ne.jp/~jpj/jcarm-FAX19.html
この表を見てまず言える事は、前回2001年度調査時よりも、全ての教区の外国人信徒数が増えている
ということです。1996年から2001年までに、一旦減少した教区においても、再びその数が増え、また
総数にいたっては、毎回6%ずつ増加し、今回は総信徒数の54%に達しました。外国人信徒数が、日本
人信徒数を上回ったのは今回が初めての事ですが、これらの数値を踏まえると、彼らと共に生きる教会
作りは必然と言えます。

谷司教が書いているのですぐ「日本社会全体に於いては、その受入れに関する責任があるということも忘れてはいけません。」という政府への要望が込められてしまいますが、政治に関しては色々問題も多く、カトリックの信者さんである外国人や難民の問題という観点からだけでなく、犯罪目的の不法入国者などの問題もあるので単純にはいかない事も多いでしょうからなんとも言えません。ですが、こうした外国の方が教会を支えているのも事実です。教会内部においては広く扉を開けて柔軟に受け入れていく必要はあると思います。

外国の方は成熟した信仰の土地から来ている方も多く、そういう方の意見も聞いてみたいものですね。ただ日本とは元々の土壌が違うので、その意見がそのまま適用出来るとは限らないとは思いますが。ラテン的な霊性について行けないという日本人も多いと思いますし。