清貧するホルヘ君

最近、気にいって爆笑したホルヘ君の話。
ローマに住む某修道士。どうも同じ神学校にいるメキシコ人のホルヘ君になつかれている。ジェラートが好きなホルヘ君はジェラートが食いたいと必ず彼を誘いに来る。5時になると必ず訊ねて散歩に誘いにくるらしい。萌えな人々にはかなり興味あるシチュエーションだが、全然そんなではなく単に「なついて」いるようだ。
ところでフランシスカンの戒律には「清貧」というのがある。貧しく清く生きましょう。と、ものを所有しないことを旨として、清貧論争なども産み出した思想であります。「薔薇の名前」にも出て参りましたね。近年までここの修道士はお金を触ることはご法度だったらしく、出掛ける時も在俗の第三会員の会計係に修道服の帽子に小銭を入れてもらって、それでバス賃とかをそこから誰かにとってもらって払っていたとか。師匠がそう言っていましたが、ほんとかなぁ?
そんなフランシスコ会の修道士達はそれぞれに「清貧」を考えているわけですが、件のホルヘ君の理論はこうであるそうな。

彼の唯一の価値基準は物の値段が高いか安いかである。安いものがいいと思っているし、フランシス
カンは安いのを買うべきだと信じている。彼と一緒に散歩して洋服屋の前などを通ったら大変である。
デザインとか材質より、安いか高いかで洋服の価値が決まるのだ。「見ろ。このジーパン50ユーロ
もする。おれのは30ユーロだぜ。」とかなんとか。彼は本を買わない。全部コピーで済ます。なぜな
ら安いからだ。本を買いまくる私を見て、彼は私が清貧に反していると主張して譲らない。「その大
量のコピーをこの後どうするの」と聞くと論文書いたら捨てるとのこと。「そっちの方が清貧に反し
ないか。俺の本は誰かが役に立ててくれるぜ。」と言うとむくれてしまった。

とにかく「自分の財布の中に於いて清貧であればいい。」という理論のようです。
しかし大量のコピーは彼のみによって消費される事は念頭にない。再生産という発想がなさそうです。

ホルヘ君は美術館の入場料は無駄と思っている。だから見たいけど入らないらしい。ホルヘ君はオペラのチケットは高いと思っている。だから聞きたいけど聞きに行かない。本も高いから買わない。しかし大量消費されるマックとかのごときファーストフードやジェラートは好きらしい。大量消費型の安いものはとにかく彼の価値の中では優れたものなようです。こういう方ははっきり言って文化を生み出す側の敵である。

アメリカ文化というのも安く大量にがモットー、ヨーロッパ文化の「高いが末長く使える」という発想ではない。ソニータイマーも期限が切れると発動するけど、ドイツなどは保証期間が無限大のものすらあるらしい。なんというかわたくしはモノを生産する側なので、ホルヘ君のような人は困る。ホルヘ君だけではなくアメリカ人も中国人も消費することにとらわれて再生産や使い続ける発想がどっかに行ってるみたいだと思う事がよくあります。資源の再生産を省みないのは漁業などの場でも問題になってるしね。。

「清貧」というからには、よいものを長く使い続け、大切にするという思想も培わないといけないと思いましたです。
でも、ホルヘ君はどこか憎めないよなぁ。