団子になる人々の再考

で、昨日はandy22さんのお陰で「みんなは一人の為に、一人はみんなの為に」とかいう気持ちの悪い言葉の出典が何処にあるか判ったわけだが、三銃士。
これはなんとスイス独立運動のスローガンで、またイギリス中産階級が好んでつかうということを教えてくれた方がいて、どうもヨーロッパの「共和性」という辺りがキモのようです。これが用いられる前提はあくまでも個が自立している場合にのみ有効であり、スポーツなどのチームワークにおいてはこの個人が一人欠けても成立しえないのですからスポーツ選手にとっては各自が自覚しなければならない重要な言葉になるわけです。つまり構成員がそれぞれ自立した個性を持ち、対等でないと生きてこないダメな言葉なのですね。モー娘。などでも構成する各タレントにも個性があるということが重要であるということなんでしょう。
ところがこれを全体主義的な場面で持ってくるととても恐ろしいことになります。
わたくしがどうもこの言葉を嫌いだと思うのは、そのような思想の押し付けを感じる時ですね。各個人の個性を消すのが前提の社会構造でそういうことをいうと全体主義的になってしまうわけです。ハンドインハンドという言葉も昔流行りましたが「なんであんたと手をつながにゃいかんのじゃ。その必然を申し述べよ。」と天の邪鬼に考えたくなる私にとっては、激しく恐ろしい言葉になるわけです。つまりたいした理由もないのに手を繋いだり「みんなの為に」とか言われてもキモイだけなのです。ましてや北朝鮮のような全体主義的な現状のなかであのような言葉が用いられている構造はもう悲劇としか言いようがありません。国家(=金さん政府)に奉仕する人民のスローガンになっちゃっているわけですから。

で、先日の発端となった司教の言葉のエントリから発展して園丁日記さんや日々徒然さんがそれぞれに考察をしておられます。

園丁日記
http://fruitsofloquat.seesaa.net/article/3474663.html
共産主義下における細胞の概念について書いています。
日々徒然
http://blog.so-net.ne.jp/hibiture/2005-05-07
組織の目的の為に冷淡になれる人々の光景をかいています。

私は基本的にマキャベリストですから目的の為の手段としては合理性があればいいと思うんですが、しかしそれでも「君主の徳」をマキャベリが説いたように最終的には「大衆への愛」(というモノ言いはこっぱずかしいけど)がないとダメだと思うのです。つまり手段を用いる人間に対する信頼感が重要になってきます。
「細胞」という手法は確かに合理的ではありますが先日紹介した随想にあるように非常に冷酷になりやすい。責任所在があきらかでないぶん信頼を置くのは困難なわけです。
ともすると左翼運動家が見せる冷淡な表情に不審感を抱かざるを得ないという場面には往々にして出会います。たとえばカトリック正平協についてはあきらかに日本共産党の思想と合致しているわけですが、彼らは自らの運動に同調しない人々に対し「正平協アレルギー」などと名付けるわけです。↓例。
http://www2.wind.ne.jp/catholictakasaki/roba_f/roba1_f/roba1.htm
これを書いている司祭にはフランシスカンの集会で会ったことがありますが、なんだか自分の政治的な具体的な主張をしていて共感を得るのは困難でした。それはおそらくその主張する事柄そのものがどうこうというより、事柄に対する霊的な観点からの視点に欠けていた為に考察の過程に共感を持てなかったのだと思います。とにかく「平和」というモノに対する個性ある思想は多数あるという前提が欠けていて「自らの言葉に真理がある」という印象を受けるような言葉であった為で、それでは万民はついてこないのです。
結局、客観性をもたずアレルギーで片づけてしまう自己批判のなさが共感に繋がらなくなってしまうんですね。しかしこうした自己批判という精神運動は日本人がもっとも不得手とするところで、ネット上の議論などでも批判を行うと全人格を否定されたように考える人が多いことでもそれを感じます。それを今更変えろというのは難しい話で、ですからそういう社会において「細胞」という手段を用いられてしまうのは、実は恐ろしいことだなと思うのです。

つまり個という存在を認めるか認めないかの差で「細胞」という手段も、また「一人がうんたら」という言葉も危険な存在になりえると思いますね。こうした社会では賛同しない人々にとって「細胞」という手段は自らを飲み込む怪しからん手段であり、警戒するのも無理はないのです。一種の思想のグローバリズムを警戒するわけです。前提にこうしたものがあるということを教導職という立場にある司教には自覚して欲しいと願うばかりです。(まぁ、マジに確信犯でないことを祈ります。)

沖縄などにも活動家が入り込み沖縄の人を煽り立てていますし、マスコミなども率先してそのような宣伝を行っていますが、島の人とは温度差があったりするので、ナニをやっているんだろう?といつも思います。彼らを利用して主義主張を唱えている構造などに気付く時などもありますが、最終的に背負わされるのは結局島の人であるわけです。

全てを踏みつぶしていく様々な「国家」の概念の歯車から逃れるには結局「目を開いていなさい」というイエスの言葉を思いおこすしかないですね。