日本は天皇の国であるか?

で、昨日の続きです。
やはり「日本は天皇の国」という言葉には違和感を感じる。「の」という字は所有格な感じがしますが、国家は誰の所有物でもなく共同体そのものだから、構成員全てが同列に集合している総体であるわけで。
武部氏はそうではなく「天皇中心主義」という感じなことを言いたかったのでしょうが、これは天皇という概念をキリスト教で言えば「キリスト」に位置させていることになるのでしょう。宗教観として近代神道を奉じる方ならそのように感じるのは当然だと思います。ですがわたくしは耶蘇なので宗教観は「キリスト中心主義」になります。その視点からすると「日本は天皇中心主義」という宗教観を普遍的なものとして語られたりすると困ってしまいます。個人の宗教観にとどめておいて欲しいかも。でもまぁ信教の自由の国で個人の宗教観を述べる自由もあるわけですが、立場が立場だけに時と場所によっては慎重な言葉選びは必要とされるでしょう。
さて「日本」という国を代表する人間の像。といったときに、例えば、アメリカならブッシュの顔が浮かぶように、日本の場合、小泉が浮かぶのか、天皇陛下が浮かぶのか、どちらなのでしょう。例えば、イギリスなどについてその国家の「顔」はというとやはりエリザベス女王が浮かびます。ブレア首相ではないんですね。政治的な場面ではそうですが、文化的側面の場合、やはり女王というほうに頭が行きますね。「天皇は日本を象徴する」とはまさにそういうことではあるでしょうね。だから「日本は天皇の国」というより「日本は天皇に象徴される国」といわれるほうがなんとなくしっくりは来ます。
ただ、不思議なのは「天皇」は近代以前の歴史の中ではすごく影が薄い。でも天皇家は続いていて何故かどの時代でも一目置かれている。これは日本人が聖と俗をそのような形でずっと持っていたということなのでしょう。中国の歴史の春秋戦国時代における周王のような存在だったんでしょうか。天に認められた存在としての、実権のない存在。それをずっと保持し続け今も保持し続けているという文化。そういう意味で「天」の代理人たる天皇が中心にあるというのは、その時々で評価が変わってしまうあやふやな正義というものを彼岸に持っていってしまう効果があるかもしれない。あるいはイデアの影しか見ることが出来ない人間の限界性がそこの関係性にあると申しますか。
うーん。また、まとまらなかったなぁ。メモ止まりになってしまいました。