祖母の話

祖母は朝鮮半島で生まれている。曽祖父は現代では悪名の高い総督府の役人で、養蚕技術の指導の為に当地に赴任していた。結婚したばかりの新妻を連れて引越し、そこで子を為した。3人の子が生まれたのだが、お姫様育ちの曾祖母にとって外地の生活は辛かった。妊娠時の気鬱ゆえか、酷く気を患い、結局本土に一人帰って実家で療養することになる。当時ノイローゼやストレス、それに伴う鬱などというのは理解されず、曾祖母の家ではそれを恥としたらしい。結局、離縁を申し入れてきた。以後、滋賀の実家で生を終えるまで暮らした。曾祖母は気の毒な人であった。わたくしは永らくこの曾祖母が最後の子供を生んで亡くなったと聞かされてきた。後年それを知ったときなんと酷い話だろうと思った。結局、50歳か60歳かそこらで亡くなったらしい。後年、墓参りすらはばかられていた事を悔やんでいた母と共に墓参りに出かけた。墓は曾祖母の親戚によってきちんと手入れがされていた。存外、平和な晩年だったのかもしれない。
幼くして母を失った祖母は、仕事でたびたび家を空けることも多かった曽祖父から「母の不在の今、お前が妹や弟たちを守らなければならない」とピストルを渡された。まだ小学校にも上がらない年齢の子供には銃はひどく重く、安全装置のはずし方も知らなかったが、寝るときはいつも枕元に置いていた。屋敷はたいそう広く、ダンスホールまであったというから、一家4人、しかも幼子三人にはもてあます空間ではあっただろう。夜中に盗賊団が家に忍び込み、色々なものを持ち出しても気づかなかったという。物騒な時代ゆえに、たとえ使用できなくとも銃は必要だったのかもしれない。
そういう子供たちを哀れんでか、朝鮮人の乳母や使用人が3兄弟を大層かわいがってくれたらしい。今も祖母はそうした人々を懐かしがる。朝鮮の人々は情が深い。同朋であるはずの日本人よりも遥かに優しかったという。しかし恨の感情も激しく、あこぎな日本人には容赦なく復讐をする。「悪い日本人の家には馬賊が夜中に襲って火をつけにくる」という。子供の時分の話なのでどこまでが伝説かは分からないが、近所には馬賊に襲われた家はあったらしい。
やがて帰国命令と共に曽祖父は日本に戻る。京都の御所近くの「明治天皇のおめかけさんが住んでいた」などと噂される地所を買い取り、家を構えた。あまりいい伝承ではない。祖母は「男が寄り付かない、もしくは男が早死にする家」と評している。現に祖母の夫は夭折した。29歳であった。この家は総ヒノキの典型的な京の町屋だった。子供の頃、長らくこの家にあづけられた時もあって、未だ結婚できないわが身はこの性か?などと疑いたくもなる。今は人手に渡り、染色家が住んでいるらしい。曽祖父が繊維工場を持ち、母は洋裁をする。こうした果てに染色家が住む。女性の装いに関わる職務へ受け継がれていく様に、かつてその地所に住んでいたという「お妾さん」の影がちらつく。
祖母の夫、すなわち祖父は養子として家に入った。跡継ぎである末の息子が当時祖父が行っていた事業を継ぐのを嫌った為に、祖母を後継者として定めた。そして入り婿をとったのだ。しかしその夫である祖父は一人の娘を残して、肺の病で命を終える。曽祖父が死んで後すぐのことであった。祖母は祖父の枕元に曽祖父が迎えに来た姿を目撃している。この早い生を予言した人がいた。家から少し離れた一条戻り橋にある阿倍清明神社の宮司をしていた人が祖父の従兄弟にあたる人で「見る」人らしい。それを聞き及んだ祖父の身体の調子がおかしくなったときに祖父の衣類を持ってたずねたところ「長くない」といわれたらしい。以来、祖母はこの神社には足を運んでいない。(後日、たまたまテレビを見ていたらこの人が映っていたので、祖母がこの話を思い出したのだ。)
戦時中、祖母は戦争未亡人と思われたらしく色々な人に親切にしてもらったという。はじめは違うことを説明したのだがだんだん面倒になった為、それで押し通したらしい。幾つか見合い話も来たが「子供はどこか養女に出して。」などという条件付きなどもあり、腹を立てた祖母は結局全て断ってしまった。戦後すぐの困窮の時代、祖父の残した資産があったとはいえ、将来に不安を感じた祖母は幼い一人娘(私の母)を曽祖父の後妻であった人(わたくしは「京都のおばあちゃん」と呼んでいて、かわいがってもらった)に預け、女手一つで暮らすための収入の道を探るために単身、東京に上京する。そこで洋裁の技術を学び、それは結局母に受け継がれた。
数年前、祖母が転倒し、骨折して入院したことがある。入院先に色々なものを持っていかねばならないために祖母の寝台を整理していたところ、古い手帳が出てきた。祖父のものらしい。祖父が亡くなる一年の間その手帳に日記めいたものを付けていた。ほとんどがその日に食べたものと熱についての記述でそっけない。「昼にうどんを食った」とか、「アンパンを2ヶ食った」とか、「今日の熱は37度3分ほど」とか、そういうそっけない記述も沢山並ぶと、会ったこともない祖父の実用主義というか、修辞のない面影が垣間見えて面白い。
さらにページを繰ると空白のページにいよいよ自分の寿命を悟った祖父が祖母と幼い娘である母に当てて書いた別れの言葉が記してあった。祖母への気遣いとお礼、そして幼子への忠告とがたいした修辞もなく書かれている。「君には苦労をかけた。」「君といたときは楽しかった」といった簡単な言葉だが、それは祖母への恋文でもあった。祖母がそれを枕元においてずっと所持していたことに胸を衝かれる思いがした。祖母が何故再婚をしなかったのか少し分かったような気もした。見てはならないものを見た気がしてそっと元の場所に戻しておいた。