福音宣教誌・その2

南蛮人の自己中についてのK神父の記述にはもう一つ次のエピソードもあります。

えぴそーど・どぅえ
K神父は聖体に敬意を払うのに日本人式でお辞儀をしていた。それを見た南蛮人どもはなんだそりゃ?なんでひざまずかないんだ?などと言い出した。そんな習慣は日本にはないと突っぱねたK神父に対し、しかも祖父の代からの筋金入りの切支丹一族の末裔であるK神父に対して、南蛮人馬鹿は「異教徒の改宗者はこれだからダメなんだ」などと言いはじめたらしい。

カトリックは「聖体」と呼ばれるパンを「キリストの身体」と信じている。そしてそれをとてもとても大切に思っている。そのお陰でローマ人に「人肉喰らい」と迫害され、プロテスタントに「偶像崇拝者」と批判される。まぁ、誤解されても仕方ないかもしれんが、神学的にそうってことを信じてるんで。すみません。んで、それを聖櫃というところに納めている。信者はこれに敬意を払いそれに見合った挨拶をする。ヨーロッパに行くと聖堂内に入った南蛮人が一瞬ひざまづくのを見かけることも多いだろうが、あれは聖体への敬意をこめた挨拶なのだ。あの挨拶の仕方は例えば騎士物語なんかでも見られるけど、南蛮人が目上のえら〜い人に挨拶するときに行うしぐさなんですね。ま、こんなキザったらしいやり方は日本人は恥ずかしくて出来ませんや。日本人でこんなしぐさを行うのはマダムに仕えるホストぐらいか?だから身についてない方法などではなく日本人として敬意を表す「お辞儀」という方法で行うのがよろしいと思います。ですから日本のカトリック教会では皆さんお辞儀を以てそれを行います。
しかし南蛮人はお辞儀は「異教の習慣」だと決め付けるんですね。そりゃ〜〜〜あんたひざまずくってのはもとをただせばあんたたちの歴史でも異教の習慣なんではないのぉ?と、思いますが、どうなんでしょう?ちゃんと調べて異教の習慣だったら南蛮人のローマンカトリックの耶蘇どもに指摘して差し上げるのがいいと思いますね。
日本のあらゆる伝統的な、日常で無意識に行うものも含め、確かに宗教的な由来のものも多くあると思います。日本の言葉そのものが神道や仏教などの伝統的な意味を内在しているものも多いでしょう。だから確かに「異教」という指摘は当たっているかもしれませんが、こういう時の物言い「異教徒の改宗者は教会の伝統を知らない」などと言ってしまう、このような欧州のキリスト教徒の持つ固有の傲慢さにはむかつきますね。
こちらも思い切り、地球の反対側のユーラシア大陸の端っこにある日の沈む辺境の地の人々を馬鹿にしたくなります。が、そういう衝動は押さえ、世界がとて〜も広いことが理解できないこの田舎モノたちの蒙を開く地道な努力も大切かもしれません。
ところで、この教会でひざまずく習慣。ある編集者がチビタベッキアのマリア像を見に行った話をチラッと書いたけど、その時乗ったタクシーの運ちゃんが筋金入りのコミュニストで散々教会の悪口をほざいていたらしい。当然奇跡も信じていない。道中、延々とローマカトリックの悪口を聞かされ、たどり着いた教会にそのタクシーの運ちゃんも一緒に入ったそうだが、聖堂に入ったとたん思いっきりひざまずいて十字を切っていたそうだ。「コミュニストの癖に・・・」と編集さんは内心思ったらしいが、彼らの遺伝子に組み込まれた習慣はそれぐらい堅牢なんだなぁ。だとするとひざまずかない人ってのはやはり奇異に映っても仕方ないのかのう。