サヨクか?ウヨクか?

昨日まで、キリスト教についての概容を書いた。キリスト教サヨクというのは違うじょ〜〜と書いたんですが、はて?ではわたくしはいったいなんだろう?と疑問に思ったのだ。誰かがサイトで「左翼」はマルクス主義者であるが、「サヨク」は政府のすることにゃぁなんにでも反対する人々のことだと書いていた。この定義ならやっぱり正平協サヨクだにゃ。
しかしである。政府、すなわち自分の世界を決定付ける権威に対しなんにでも反対したがるというなら実はわたくしはカトリック教会内ではサヨクということになるなぁ。最近の日本のカトリック教会の公式文書にことごとく反対したくなるもんよ。
冗談はさておき、「正義と平和協議会@日本」のサイトを眺めているとほとほとあきれ返るというか、特定の政治思想のスタンスを持つのはそれはまぁ自由でかまいませんが、どうもお粗末過ぎるので悲しくなりますね。
例えばこんなこと↓を指令したりしていいんでしょうか?

イラク攻撃反対署名等です
■ 電話を、FAXを、メールを集中しよう! 
  アメリカ大使館 Tel:03-3224-5000 Fax:03-3505-1862 
 WEBサイト投稿ページ: http://japan.usembassy.gov/j/info/tinfoj-email.html
 ホワイトハウス E-mail president@whitehouse.gov
 小泉首相首相官邸 Fax: 03-3581-3883 Tel: 03-3581-0101/03-5253-2111 
 WEBサイト投稿ページ: http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
 その他の抗議先は、HP参照;http://www.jca.apc.org/stopUSwar/actions/actions_top.htm

「抗議文を送りたい方は下記のアドレスを参考にしてください」というのなら分かるけど、「集中してください」というのは、F5攻撃でもしろというんでしょうか?それだとするならあきらかに告解ネタですよ。むかし「幸福の科学」がどこかの出版社にやった手法です。抗議はきちんと紳士的に行って欲しいものです。その為にも文章の表現はきちんとしておいて欲しいものです。

また、↓このように日の丸君が代に反対したりしています。

1.「日の丸」は、旗そのものの起源は古くとも、アジア・太平洋地域の人々にとっては
大日本帝国」軍による侵略のシンボルとして印象づけられています。過去の侵略・
植民地化の責任を認めず、戦後補償もしていない日本が、この「日の丸」を国旗として
制定することに対して強い憂慮の念を抱きます。

これは以下のように言いかえが出来てしまいます。

1.「十字架」は、その存在そのものの起源は古くとも、南米、イスラム教国の人々に
とっては「十字軍」や「植民地主義者」による侵略のシンボルとして印象づけられてい
ます。過去の侵略・植民地化の責任を認めず、補償もしていないカトリック教会が、
この「十字架」を象徴的シンボルとして制定することに対して強い憂慮の念を抱きます。

目くそ鼻くそを笑うとはこのことだな。そもそも、カトリック教会的には物事の表彰におけるもの、形相と本質という事柄には知悉していたわけで、その本質こそが問題となり、表象的な、例えば偶像崇拝が禁止されているにもかかわらず、目に見えるものであるイコン・聖画・聖像の存在を認めたり、また聖体は「イエス・キリストの身体である」という化体説を採択するとか、つまり形相と本質との問題については高度に哲学的理解でもってそれをクリアしてきたわけである。シンボルそのものには意味はない。本質がどうであるかによってシンボルの意味も変わる。つまり日の丸の本質を平和的なものへと我々の努力で以て変えることが重要だと思うんですよね。
なお且つ、キリスト教徒なら日の丸によって流された血や恨みを自分の十字架として背負っていこうという覚悟を持つことも大切だと思うんですけどね。存在そのものを無くしてしまって「自分の手は清い」などという立場に置こうとするのはピラトのやったことでしょうよ。
なんとなく、この人たちはカトリックの教義を信じるとする信者なのにギリシャ教父たちが延々苦労して考え抜いた三位一体の仕組みを理解していないんじゃないかとか、聖体はあれはキリストの身体のわけはないだろう。とか、挙句は十字架の購いは他人事だろうとか言い出しそうな気がするんで、そのあたりの整合性はどうなっているんだろうと思いますよ。
また、こういう批判をする人々のことを「正平協アレルギー」などと片付けて簡単に見下してしまうような傾向があるのも怖いです。

正平協アレルギーの方へ
http://www2.wind.ne.jp/catholictakasaki/roba_f/roba1_f/roba1.htm
偏食の害について

好きな聖書の言葉がだれにもあります。しかし、自分の好きな言葉だけに親しんでいると、
自分好みのキリストのイメージで行動することにもなります。耳にいたく感じる「み言葉」
にも聴き従うべきです。パウロも次のように記しています。

「人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、
自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め」(2テモ4:3)る、この傾向を認めまし
ょう。当たり障りのないお話しや文章を改めて、きびしい言葉にも耳を傾けましょう。
試しに読んでくださったら、うれしいです。

アレルギーが早く治りますように!

正平協に反対する人々の思考を「アレルギー」と片付け、厳しい言葉に聴く耳を持たない人々としています。彼らが提示する問題について考えていないのではなく、単にまったく方法論が違うことを考えているだけであると思うのですね。つまりそれらの批判的な人々の厳しい言葉に耳を傾けていないのは彼らなのですが、そのことに気づけない客観性のなさは恐ろしい気がしますね。
ここでは幾つかの提案された項目が挙げられていますが、それらの問題を憂慮しない人はいないでしょう。しかし彼らが考える解決の青写真とまったく異なる発想を持つものは、彼らの解決方法には耳を貸さないでしょう。当然です。政治的な事柄には色々なスタンスによる様々な解釈があります。しかしそういう思想の異なる人々が距離をとろうとすることを指して「アレルギー」と揶揄する行為は他者を貶めるレッテルを貼る行為であり、およそ宗教者の語る言葉とは思えません。もし共感が欲しければけしてこのような否定的なレッテル貼りは行うべきではないと思いますね。共感が得られないとするならまさにその書き手の姿勢そのものが嫌われているだけに過ぎないでしょう。どんなによい主張をしても他者を病理扱いするような見下した態度では誰もついては来ません。この書き手は自分の考えこそが正しく、それに従わないものは「よくない」と考えているように見受けられます。それは全体主義の思考なのです。他者には多様性を求めながらも自分自身は思想のごり押しをしている。それに気づかない客観性のなさに警戒されても致し方ないと思います。
まずこの「アレルギー発言」のおっさんは自分自身が祈りのうちに等身大の自分を発見したほうがいいと思いますね。
平和を求め模索する運動は大切であると思いますし、それは宗教者の務めです。しかし正義は自分にしかないという上記のような考え方は、かつての異端審問官のごとき態度です。カトリックの病理が未だこのような形で残っていると思うと同じカトリック信者としてぞっとします。