死者の書を巡るあれこれ

本日のこれ↓
一日一チベットリンク運動/Eyes on Tibet

チベットというと、そういえば昔『チベットモーツァルト』という本を中沢新一さんが書いていました。

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)

これは文庫判。もとの単行本もお面の表紙だった記憶があります。記憶があると書いているのはわたくしが読んでいないからなんですが、当時、大学生の間ではこの人のこれとか、スキゾがどうしたとか書いてた浅田彰の『迷走論』とか『構造と力』といったニューアカなどと呼ばれる学者さん達がぶいぶい出てきた頃だったと思います。あたらしモノ好きな学生はみんなこれが本棚にあったりしたわけですが、しかしわたくしは読んでいません。もとよりびじつガッコの人間なんで、人文系は激しく疎い。『構造と力』に到ってはそのタイトルで農夫耕三と馬のチカラの愛情物語。とか勝手に想像してしまう程度です。まぁポストモダンとかはしかのようにみんな罹っていた時代でした。絵描き世界ではニューアカなこの手の書より、やはり視覚展開をしている人々などが注目され、例えばポストモダン分野というとデザイン世界などで展開されるものが注目されてましたですね。イタリアンモダンとか。今となってはこれらの本が本棚に並んでいたらちょいと恥ずかしいかもなそんな時代。
中沢さんに話を戻すと、現代思想チベット仏教という、仏教の源流の邂逅みたいなそんなことをこれで書いたらしいんですが、読んでいないので判りません。先日紹介したNHKの『死者の書』は結局60年代的ニューエイジ的なにほひがどうも苦手でやめたんだなと思い出しました。西欧のヒッピーがインドを目指したように、中沢はチベットを目指したのかその辺りは判らんのですが、同じ頃、麻原彰晃チベット的なるものを取り入れようとしていたようですが、そういう関連もあってか、中沢と接近し、中沢新一がそれ絡みでしばらくバッシングを受けていたという、気の毒な過去がありましたね。この時山口昌男がかなり中沢に同情していたのを思い出します。

結局、今に到るまで中沢新一の本はちゃんと読んだことがなかったのを思い出したわけですが、最近になって『アースダイバー』なるものを読んで、なんというか荒俣宏の方が面白いと思ってしまったのですよ。もうしわけないが。

アースダイバー

アースダイバー

東京のほとんどが海だったよ地図とか霊的スポットヲチとか面白い要素はあるんですが、なんかこじつけ臭いというか、それムー的過ぎ。なのもあったりするので、読んでいて苦痛になる個所もあったのでした。

で、なんで中沢新一の話をしているかというと、例のNHKチベットの『死者の書』は中沢新一も絡んでいて、彼もまた1993年に『チベット死者の書』の本を書いてるんですよね。
これ↓

先日発掘したNHKのと一緒にこれも発掘されたんですが、なんでこんなもん買ったんだ?とニューエイジ臭がそこはかとなく香るようなのはどうも敬遠してきたはずなんだがと?とめくりながら悩んでいたんですが、実はこれを買った年の前年に、大切な友人を無くしていたことに、やっと気付いたのでした。脳のハードディスク容量が少なすぎると、自分の行動すら思い出せないので困ったものですが、人の死を乗り越える為に即物的に『死者の書』に飛びついていた過去の自分が我ながら情けないなぁというか、ずいぶんとまぁ青臭かったんだななどとちょいと恥ずかしくなりました。

今、改めて読み返して、自分自身の死生観とは異るがしかしあの世への概念と真正面から向き合う宗教伝統のその彩りは美しいといいますか、つまり、宗教的なるものは、土地に記憶されるようなものであり、無意識の日常や慣習の中に生きるものであるので、人工的にどうにか出来るものでもなく、受動的な行為だと思うのです。人間に内財する自然にあるというか。それが表象では様々な伝統宗教の形をとっているとしても、そういう恩寵的なもんではなかろうかと思うのです。んで、中沢新一の『アースダイバー』にしてもそういう感覚によって書かれたモノだろうなと。

ゆえにこれらが自然と息づく文明の一つがなにやら圧力をかけられ危機に瀕してるってのは悲しいと。まぁそんなことを思ったりします。
たくましいものならばそれはこの先も人々の間で継承されてはいくと思いますが、象徴としてのラサの土地の記憶が塗り替えられていく光景というのはやはり心が痛むなと、本日徒然にそんなことを思っておりました。庭の芝刈りながら。