教会という信仰共同体

先日、一輝師匠の聖ピオ10世会についてのエントリを紹介した。
そこでは教義つまり神学的な事柄、ロゴス化されたもの、或いはテキスト批判についての姿勢についてと、信仰ということを書いた。対象となった聖ピオ10世会についてはそれほど知識はないし、是非を問うてはいない。

彼らに対する知識といえば第2バチカン公会議以降に編纂された典礼の拒否つまりトリエント公会議によって決定された典礼をよしとする立場であり、「カトリック教会」という共同体内で行われている様々な事象について、批判的な保守派という認識しかない。まぁ個人的に、その手の派閥的な行動にはもともと興味が無く、それ以上の知識もないので、それ自体をどう評価するということにもあまり積極的になれずにいたが、師匠のブログや小野田師のブログ、護教の盾さんという論者のブログ日記を読んでいて色々考えてしまった。
○護教の盾さんのブログ日記
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/poppyoil/index.html

○聖ピオ10世会の小野田師のサイト
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/

護教の盾さんは、現行のミサの光景に失望し、悩んでいたようだ。たしかに聖なるものを感じなくなっている状況というのは私自身も感じる。聖堂が聖域としてない。霊的なもの故にそれらがどうであるからと説明できうるものではないが、欧州などに行って感じるような、ナニか霊的な静寂を感じないとか、とにかく祈りの空間がなくなっている気がする。こういうのは多くの人から聞こえてくる。
アジア的な聖域もいくつか回ったことがある。使われていない寺院と、使われている寺院では祈りの密度が違う。インドネシアの仏教寺院ボロブドゥールやプランバナンのヒンドゥー寺院はやはり遺跡でしかなかったが、バリの寺院には祈りがあった。その空間にはやはり人を凛とさせる静寂があり、自ずと沈黙してしまう濃密な空気があった。
中国の破壊されてしまった道観は惨めであった。しかし香港の道観は祈る人があちこちにいてそのエネルギーに巻き込まれそうになった。中国の道観での祈りは沈黙というよりはダイナミズムを感じる祈りではあったが。焚き染められる香の匂いと地べたにはいつくばってい真剣に祈る人の作る空気が充満していた。
正教の聖体礼儀は面白い。おそらくかつてのカトリック的な要素を残していると思うのだが、祭儀中もイコンに祈る人たち、祭儀に注視する人たち、何故か祭儀中に出入りする者たちと信徒の動きは遊動的だが、聖歌隊の音声が聖堂内に満ち祈りへと引きずり込まれる。司祭と補祭が勝手になにやらイコノスタスの向こうでやっているのが怪しく、神への畏敬と共に充満する祈りによって聖堂内が神へと向かう宇宙に変容していくのを感じる。

で、ローマ・カトリックというとスペインの山奥のベネディクト会の修道院の荘厳なミサからフォークミサまで色々見てきたが、実はトリエント公会議のミサなるものはあずかったことがない。なのでどんなものか知らない。見てみたいとは思うが、お子様な頃から現行のミサしか知らぬし、それに祈りがかけているとか「新しいミサは有効性がない」などと言われても困惑するばかりである。

確かに浮ついたショーのごときミサなどに最近出くわして激しく困惑してしまうのは事実だ。祈れない。司祭のやることが気になって仕方がない。「あんたの発表会を見に来たんではないんですけど・・」と思いたくなるくらい司祭が出すぎているミサなどに出くわすとそれこそ「涜聖・・」と呟きたくはなる。小野田師が怒りを込めて今のミサのていたらくを批判するのはすごくわかる。聖堂内もおよそ霊的な空間とはいいがたい。しかも昔より酷くなっている気がする。

だが上記に挙げた祈れないようなミサは極端なシロモノであって、現状のミサでも、原則を心得た司祭のミサは聖なるものの息吹を感じる。それを否定されるってのは激しく困惑である。(師匠濱ちゃんのミサは聖なるものを感じるじょ)

極端が極端を生むというのはあるだろう。特に司祭のショーのごときミサ、或いは聖なるものへの畏怖なり、敬意なりを著しく欠いているミサばかりになれば、「昔はよかった」などと言い出すのがでてきて当然だと思う。一輝師匠が指摘するように聖ピオ10世会は教義等においては間違ってはいないし、他方であまり神秘的なものに親和性がなさそうな革新的なミサをしている司祭も典礼憲章に沿って行っているならば原則としては間違ってはいない。ただ極端な保守を生むのは極端な革新であり、どちらも鏡のごとき存在だろう。

こういう時、共同体はそれぞれの指向性でもってセクトを作り始め、やがて分裂する。ルフェーブルの司教は破門されたらしいが、彼に付き従っている神父或いは信徒たちの群れがいる。彼らは共同体のその他の指向性の者達を拒絶する。そして断罪する。他方で、彼らに批判的な者たちがいて、彼らを排除する。危険視する。そしてこちらもまた彼らを断罪する。その光景こそがまさに罪深いとわたくしなどは思う。(同じような光景では、ネオカテクメナートスの問題があった。こちらも教会内に別のセクト集団を作り出すということで問題になっていた)

教会とは、信仰共同体である。共同体である以上社会性というものが問われてくる。それぞれの蛸壺で批判しあっているのは結局社会性のない現象だなとは思う。どんな社会でもそうだが、どこで妥協点を見出すか?という作業が社会性に繋がる。例えばカトリックという共同体には伝統的な原則は存在している。それを踏まえたうえで見出される個々の固有性というものがあるだろう。その固有性は確かに大切だが、他の固有に対し「それは原則ではない」などと原則に対して固有の解釈を行い、他の固有に妥協しないとするならば、それは共同体から分裂するしかない。「原則」の合意が為されないなら自立し、独自の教団を打ち立てるしかないだろう。つまり自分で教会を立てるしかない罠。

ま、かつて教会内に蠢いていて問題になった団体があったなぁ。リトルペブルとかいう人たち。うちにもメール来たことあったけど、あの人々はその後どーしたんだろう。自立して教団でも作ったのか?とにかく、寄生して蠢こうなんて虫のいい話は赦されなかった。

まぁ、教会史なんてそういうのの連続なわけで。概ね政治的に強いのが勝つ。身も蓋もない言い方すれば結局政治力なんだよなぁ。マジョリティが方向を決定していくなかでマイノリティがはじかれるというのもあれば、力が拮抗していれば完全に二分する場合もある。教会の教義って実はけっこう俗なレベルで決定されていくもんだったり。アリウス派なんかかなりマジョリティだったが、教団を維持する政治力に欠けていた性で弱小化しちゃったようである。

まぁ、分裂してもキリスト教という括りでの「教会」の内にあるわけなんだけどね。

ただ、少なくともローマ・カトリックという範囲で、原理主義的に排他していくとどうなるかってのは過去の剣呑な歴史を見てもロクでもない結果を生むだけだとは思う。ことに全てがキリスト教徒だった西欧社会のトリエント公会議の時代と違って様々な価値の人々が社会共同体で暮らす社会で、尚且つこんな極東の国で、どういう舵取りをしたらいいのか、バチカンは悩んで出した結果が第二バチカン公会議であろうし。原則をはずさないで為された典礼の変更、舵の切り替えはそれなりの意義はあると思っている。カトリックは俗っぽ過ぎる、或いは世俗に妥協しすぎているといわれるけど、そうやって生き延びてきたともいえる罠。

そもそもトリエント以前ってのは典礼は自由に色々なのがあったわけで。だからトリエントの典礼も、新しいミサも、どちらも有効だと考えるならそれはありだとは思うけど。ついでにミラの典礼もモサラベ典礼ガリ典礼も復活・・ってなったら面白いだろうなぁ。双方が同居しうるという解決がありえるはずだが。

あと、重箱の隅をつつくように「アレは涜聖だ!」「これは涜聖だ」などとやっているのは私個人は霊的によくないのでどうも苦手ではある。そんなの気になりはじめたら神様に向かえないです。

社会問題ばかりに夢中になりすぎるあまり、政治活動しているような神父、司教とかもどうかと思うし、金銭的に貧しい人がイエスに招かれているのであって、富裕な人々はそれ自体で罪だなどというような「罪」を金銭の多寡に委ねるような発想や、或いは社会のマイノリティであることがそれ自体罪だといわんばかりの単純化された階級闘争を主張する神父もこれまたどうかと思うが、典礼に夢中になって社会共同体や信仰共同体という他者的存在を排除していこうとする神父や司教も、極端すぎてどっちも遠巻きにしてしまいますよ。どちらも光景としてある特定の人々を排他しているという点において、たとえ主張が正しくとも、やはり愛なき思考ゆえについていけない。

結局、極論は信徒レベルでは悩める人を生み出すばかりで、教会共同体としてどうなんだ?と問いたくもなってしまいます。
自分的には中庸を良しとしたいもんですが。

しかしまぁ神秘の問題ってのはロゴス化しようがない要素だからね。難しいんだろうね。