ベネディクト16世問題・邦訳文がでた紹介

日本のカトリック中央協議会は偉い。頑張って訳文を全部掲載した。中央協議会の中の人は「これを読み、文書に対しちゃんと論駁しようね」ということなんでしょう。余計な能書き述べずに掲載。プラグマティックスなとこが偉い。

教皇ベネディクト十六世のレーゲンスブルク大学での講演
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message143.htm

読んだ所感ではいやはや全編を貫く「おれっちの宗教サイコー」なとこが妙に鼻につくも、よく考えたらカトリックの代弁者たる教皇がそれを思わんで誰が思う?というしかないか。まぁ部外者からは「アホか?」と思われても仕方ないメソッド。

そういう鼻につくスタンスを割り引いて読んでみるに、教皇はどうも最近読んだ本に己の蒙を開かれたらしく「キリスト教神学の流れの問題点にこれは当てはまるよなぁ」とか考えたようだ。イスラム云々はそういう流れで出てきたようである。他者的な事柄から自身の問題点を浮き彫りにして見ましたという按配。しかしその「他者的な問題」が「イスラム」という微妙さを必要とする分野だけにこんな結果になってしまった。その辺りを読めなかったという時点で、内輪世界の気安さも手伝ってるとはいえ、学者馬鹿はこれだからしょうがないな。知識世界は政治的なものをいったん脇に置き、素材を相対化して考えるとはいえ、それが通用するのは学者世界のみと申しますか。タマタマ最近読んだ本がイスラムネタだったというにせよ、カトリック内でそういうものを浮き彫りに出来る素材がなかったのかねぇ。

教皇の主眼はイスラムより神学における「主意主義」のもたらす考え方の問題批判であろう。主意主義といえばフランシスコ会学派。スコトゥス先生の潮流。こいつはその筋の専門家に意見聞いてみたいですねぇ。教皇主意主義批判は妥当か?否か?わたくし的には高度でよくわからないです。

ただこの講義は、重要な多くの要素があまりにもありすぎます。多すぎて散漫な印象はぬぐえませんが、この箇所は必読。

わたしたちは、人類にもたらされた新たな可能性を享受する一方で、この可能性から生じたさまざまな危険も目にしています。そしてわたしたちは、どうすればこのような危険に対処できるか、自らに問いかけなければなりません。

 そのために、理性と信仰を新たなしかたで総合しなければなりません。人が自らに命じた、経験的に反証可能な領域への理性の限定を克服し、理性を広い空間に向けて再び開放しなければなりません。この意味で、神学は、たんなる歴史的・人文科学的学科としてではなく、本来の意味での神学として、すなわち、信仰の合理性への問いとして、大学に属し、諸科学の大きな対話に加わるのです。

 このようにして初めて、わたしたちは、わたしたちが緊急に必要としている、諸文化と諸宗教との真の意味での対話を行うことが可能になるのです。西洋世界では、実証的な理性と、実証的な理性に基づく哲学のみが普遍性をもつという考えが、ずっと支配してきました。しかし、世界の深い宗教的諸文化は、このように理性の普遍性から神的なものを排除することを、彼らのもっとも深い確信に対する攻撃とみなしています。

  神的なものに対して耳を閉ざし、宗教をサブカルチャーの領域に押しやるような理性は、諸文化との対話に入ることができません。同時に、わたしが示そうと試みたように、本質的にプラトン主義的な要素をもつ近代自然科学の理性は、自らの内に、自分自身とその方法論的可能性を超えたものをめざす問いを含みもっています。近代自然科学の理性は、物質の合理的構造を、また、わたしたちの精神と自然を支配する合理的な構造の対応を、単純に所与として受け入れなければなりません。その方法論はこうした所与に基づいているからです。

多文化、多宗教世界との対話に於いて「理性」はより重要になる。という教皇の考え方はその通りであると思います。それゆえに神学世界のアカデミズムのあり方はより重要になるでしょう。昨今はこうしたアカデミズムへの侮蔑が日本の神学校にも見られるようで嘆かわしいものですがね。聖職にある方々はより一層自覚してほしい事柄ですが。

神学にとって、人類の宗教的諸伝統の、とりわけキリスト教信仰の、偉大な経験と洞察に耳を傾けることが、認識の源泉となります。こうした源泉を拒絶するなら、わたしたちは、許しがたいしかたで、自分たちが耳を傾け、応答する態度を制約することになります。

これはキリスト教世界という閉じた場ではあるが重要なスタンスだと思います。しかしこれは各宗教が、たとえば上記の「キリスト教」を「仏教」「イスラム教」と置き換えることも可能であり、それぞれのスタンスのものがそれぞれのスタンスの中から他の存在を認める為の手段としての第一歩だということでしょう。

猫さんが指摘なさっておられたが、日本における日本のキリスト教神学的なこと、この国境なき情報世界の世界に於いて、妙な西欧対抗的な、あるいは妙なインカルチュレーションでない、現代日本の神学も模索する必要はあるかも。どういう感じになるんでしょうねぇ。水脈を西洋に置きながらアジアにいるという特殊な環境で。

主意主義

http://www.geocities.jp/enten_eller1120/thema/sein.html

ベネディクト16世の講義は主にこれへの批判↑
資料として付記しておく。

中世イスラムの事例から見出される神概念は「主意主義」に通じるなぁ。と、本を読んだ時、思ったらしい。なもんで「主意主義」的な思考が近代ヨーロッパのその後の思想世界(宗教世界を含む)を構築していった様態から、それへの批判が寧ろ主だったものである。とはいえあまりにも概論過ぎて緻密にどうなのか?ってトコでイマイチ腑に落ちない所もあるけどね。(専門家ではないので具体的にどうと指摘できないけど)