愛国心、再び

昨日は「法と愛国心」について書いたけど、今日は「愛国心」ってこと自体について考えてみた。
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わたくしはどーも、他人の悪口とか愚痴とかぶつぶつ垂れるのを聞いているとイライラしてくる悪い癖がある。ヤなことがあって愚痴りたい気持は分るのだが、どーもそれへの解決にならんような他人の悪口やら愚痴やら垂れてるだけなのを延々聞かされると終いに切れてしまう。「で?どーしたいのさ?」とか聞きたくなる。愚痴ったり文句垂れるってのはそれなりに関心があるからなんだろう。だったら関係性を修復すりゃいい。しかし関心がなくてどうでもいいのに文句垂れたりするのはただの悪口だ。聞きたくもないづら。
或いはどこかの組織に属していながらその組織の悪口をいい続けるヤツも嫌いである。自分の所属する処を批判し、他所様がよいなどというヤツがいると、そっちに行けばいいじゃんか。いいかげんにせい。移る度胸もない癖に文句垂れてるんじゃねーよ。などと思ってしまったりする。まぁ、諸事情もあるんだろうからこういうイライラってのは悪いなぁと思いつつも、イラついてしまうのだな。
で、まぁ移れるような組織はともかく、国家である。国家を嫌悪するって心理が私にはよく判らないが、いったん嫌悪しはじめたらちょいと辛いとは思う。まぁ逃れられない属性を持て余すってのは、どうなんだろう?わたくしはどうも所属する「国」なりをまるで他者のように見做しているような感覚ってのは、なんか判らない。例えば、島にいて私は島人ではないけど、だから島の人のような感覚では島を愛してはいないが、しかし島を愛しているみたいな心理というものがある。つまり住んでいるところだからこそ良くしたいとか、そういう思いはある。島にはなんだか変なテーマソングがあったりして有線でタマにかかるんですが、正直「なんじゃこりゃ?」と思いつつ、それもちょっと愛おしくなったりする。「他所者だけど、ここが好きだよ。」みたいな。日本に対してもその延長線みたいな感覚がある。新興住宅地の都市生活者だったもんで、特定の地域的な愛着も疑わしいし、宗教観も大多数の日本人のそれとは違うんで、土着的なことや宗教性を言われると永遠の他所者だなと思うのだけど、でもまぁ、外国にいくとどうしたって日本人なわけで。んで、日本を褒められたりすると嬉しいし、けなされたりすると悲しくなる。「己自身を愛するように隣人の集合体である国を愛せよ。」みたいな感覚がどこかにある。まぁキリスト教ってのは隣人愛を説く宗教だからね。
なもんで、どーも「日本国」への「愛」を嫌がる人の気持みたいのがなんとなく理解出来ないんですが、理解出来ないからといって頭ごなしに否定するのもナニだし、それぞれに事情やらナンやらがなにかあるのかもしれないので「嫌い」という人を無理に「好きになれ」とまではちょっと言えないかなぁ?などとは思うのです。

・・・・・で、木走さんがこんなエントリを。
○木走日記
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060419/1145448522
■[社会]愛国心を法律で縛るのはエレガントじゃない
エレガントじゃない・・・・。うむ。すごい表現だ。
でも「美学」的じゃない。野暮って感じ。というエレガンスのなさというのは確かにそうだなぁ。

愛国心てのは、結果としてみんながこの国を愛すれればけっこうなことなのであって、愛さなければいけない強制的なモノじゃないはずなんですよね。

・・・ということに同意してしまいます。
またコメント欄でkawaさんが書かれた意見

『法で規定された事による影響ではなく、まずはなぜ法で規定しようとしてるのかを考えるべきかと。
一般的には特に問題が無ければ法で規制しようとはしませんから。

歴史の調べ物で最も難しいのはその時代の常識や雰囲気だといいます。
当たり前のこと・変わらないと思われてることは、誰も書きとめようとはしませんから。
私も愛国心なんかは法で規定すべきではないと思うんですけど、こういう情緒的な考え方やそれを常識・良識とする価値観などは後の世代に残せないんじゃないかとも考えちゃいます。
こういった漠然とした断絶の感覚みたいなものがこういった法を作ろうとする原動力になっちゃってるのかもしれません。

・・・という意見になるほどなぁとは思います。
なにか、本来、別に取り沙汰するまでもないことを取り沙汰しなければならなくなってしまった。そういう感じですね。ただ、やはり「法」で規定するってのはパンドラの箱を空けてしまうような行為にも思えるのです。
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一輝師匠がこういうエントリを応答
金田一輝のWaby-Saby
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki/20060419/p1
■[天皇][時事]神国日本

とはいえ私も「愛国教育」など不要と考える。必要なのは「愛国教育」ではなく、「皇国教育」である。つまり、「日本は天皇を中心とする神の国」であるということを全臣民に理解せしめることが重要なのだ。要すれば、日本「国」と天皇は不即不離の関係にあること、天皇なしの日本「国」は定義矛盾であることを、事実としてわからせれば十分である。
その意味でも、憲法第一条は
天皇は日本国を代表する国家元首である」
と改正すべきである。

う〜ん。愛国心の問題と天皇制はちょっとわけて考えておきたかったんですけどね。
んで、引用した個所に応答するなら、日本という国家の特異性、「天皇が施政者を任命する伝統」ってのがありますね。事実上政権が移動した鎌倉幕府も、江戸の徳川も、天皇からの征夷大将軍としての任命ってのは重視してきたわけで。これは現代の世界においてはあまりない事例なので他と比較出来ない。かなり特殊。これを「他国がこうであるから」とか語っても仕方ないことではある。ヨーロッパの王権とも違うし。だからまぁ師匠の言わんとするところも判るです。もっとも私の内面ではそれが宗教性とは結びはつかないんですけれどね。

しかし以前、内田樹氏がブログで語っていた

http://blog.tatsuru.com/archives/001610.php
「私はたぶん「儀礼」というものが根っから好きなのであろう。
儀礼というのは「なんだかよく意味のわからないもの」である。
にもかかわらず、「決められたとおりにちゃんとやんなきゃダメ」というものである。
「どうして?」と問い返すと、「・・・だって、むかしからそう決まってるから」という答えになっていない答えしか返ってこない。
私はおそらくこの「答えになっていない」ところを愛するのである。

・・・・・・・・といった感覚をなんとなく共有してしまう。
日本の伝統的なものがあるとするなら、この「昔からそう決まっているから」的なロゴス化されていないものの良さがあるかもしれない。これにおいて感覚的にわたくしも共有出来る。
キリスト教はロゴスの宗教なので、キリスト者の私がそういうのはおかしいかも知れないけど、よく考えたらカトリックもそういう要素が異常に多いな。
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madrigallさんが教えてくださったんですが・・・
かなり酷い先生がいたみたいです。↓
http://www5b.biglobe.ne.jp/~nomaki/adachi_index.htm
イデオロギー教育っていうもの自体、右にも左にも距離をおきたくなりますが、そもそも「愛国心」条文盛り込みの発端がこのような教育の現場だったりするわけです。「日の丸・君が代」にヒステリックになる教員達。政府からの「押し付け」に過剰反応してノイローゼにまでなる以前に、生徒達に同様のことをしていた人たちがいる。生徒達が自身で考えるべき自由な政治思想が抑圧されてしまうという光景も異常です。

不自然が不自然を呼んでしまったという感じが否めないですね。