ハリケーン娘カテリーナさんのその後

アメリカのハリケーンの影響をテレビで見ましたが、現地の被害はすごいですね。昨日も書きましたが、やはり貧困層への被災ケアがなっちゃいなかったというか、「避難しろって言ってもどこに避難したらいいの?避難するお金もない。」といって怒っている黒人のおばちゃんが出ていました。そうだよなぁ、それにアメリカっていう国はほんまに車がないと何処にもいけないようで。車を運転することの出来ない一人暮らしのお年寄りや病人が避難しろって言われても・・と、思ってしまいます。中越地震のときは孤立した町や村の人が助け合ってしのいだりしていたようですが、そこはやはり常々の田舎のよさの部分において救われたともいえるでしょう。島でも互いに連絡を取り合います。「何かあったらうちにおいで」などといってくださいますし、電話を下さったりします。しかし、都市部で規模がでかいとそういうコミュニティが希薄であったり、余裕がなかったりするでしょうから、東京でもし災害が起きれば同じような悲劇が生じるかもしれません。
アメリカの場合の悲劇は互いを助け合うだけの余裕すらないほどに生活が大変な人々を直撃してしまったことにもあるとは思います。
ところで、uumin3さんがトンデモな人々を紹介しておりました。

http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050905

アメリカの保守的キリスト教団体
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20050905#p2

上記のエントリで紹介されているアメリカのどこかのプレス記事で、同性愛者のイベントに絡めて「ハリケーンカトリーナさんは天罰」的ニュアンスで書いているとのこと。スマトラ津波のときにも「天罰じゃ〜」などと言い出す馬鹿宗教野郎がおりましたが、災害ごときに罪に対する罰を言うな。と思いますね。そもそもがなんで同性愛者というだけで罰せられにゃアカンのだ?馬鹿者。しかも被害にあったのはそうじゃない人のほうが異常に多いだろうが。カバたれ。などとムカついてしまいますね。
昔、サボナローラというドミニコ会の修道士がフィレンツェで、「おフランス軍が攻めてくるのはフィレンツェの人々が悪徳に染まっているからじゃ〜。教皇が腐っておるからじゃ〜。悔い改めよ〜。」などと民衆を煽りましたが、それから一歩も進化していませんね。ましてや地震津波や台風などは自然の力の表れに過ぎず、もし超自然の力を思うなら、我々はそのような宇宙の規模で言うならへでもない、しかし人間にとっては大ごととなるような自然の脅威に囲まれながらも、一定の秩序のが保たれている奇跡的な環境で生きている、まさにそれが奇跡なのだと感謝するほうがまだ健全でしょうね。
そもそもこういう現象でもって終末観を煽ったりするのはカトリックでは伝統的に嫌われてきたようです。古くはヨアキム主義者、或いはカタリ派などのように、現世を否定し終末観を煽るような大衆煽動型の思考は「異端」とされ、警戒されたようです。カタリ派にいたってはカトリック教会が彼らを酷い目にあわせましたから、そうなるとカトリックそのものが彼らを末法に導いてしまったというか・・それもまた激しくとんでもないことだとは思いますが、やはり末法思想の極端なものや「天罰」などをいうような脅しはよろしくありません。そもそも神の真意など分かろうはずもないのを「お前が言うなよ。お前が。」といいたくなりますね。
ただ、災害に遭った当事者達が不安にかられ、それに意味を見出そうとするような現象があります。スマトラ津波のときは被災地でそうした声が聞かれたようです。フィレンツェにおいてあのリベルタを愛する市民達がサボナローラのような狂信的な声に耳を傾けたのも、彼らの都市を取り巻く政情不安からだったのでしょう。そうした人々が不安の中でなんとか道を見出そうとするときの宗教観とは、結局、それが目の前の出来事を克服するための力となる場合もあるからなのかもしれません。自分の能力を超えた悲劇に対し、何処に怒りをぶつけていいかも判らないほど追い詰められた精神のなかでは誰しもなんらかの着地点を見出したいと思うものです。そういう場合えてして施政者への怒りなどが生じることが多いようですが、このような宗教的解決を行うという知恵を古代の人は持っていたようです。
旧約聖書には随所にそのような「神の罰」の光景がでてきます。それは旧約の民を取り巻く悲劇的な状況と、そこからなんとか希望を見出そうとする祈りというものを読み取ることは出来ます。しかし、それを根拠に「滅ぼしていい人々がいる」などということはおかしな読み方であると思うのです。やはり、それを以て誰かを罰するような思考はどこか壊れているなと思いますね。