福音宣教誌

知り合いの某司祭が寄稿している。読め読めとうるさいから読む。読んだ。「福音宣教」いかにも臭いネーミングのこれはカトリックの月刊誌。ギョーカイのマイナーな本ですな。抹香臭い話なども載っている。無関係な人には意味のない代物ですが、K神父のローマで体験した話は面白い。2回ほどしかまだ書いていないんですが、そこで語られたエピソードを簡単にご紹介。

えぴそーど・うーの
ある時、日本人の留学生が修道院にやってきた。自己紹介で当然自分の名前(通常使う名前)を言う。するとそこにいた南蛮人どもは「なんじゃそりゃ?変な名前だ」といいだしたそうだ。「聖人にそんな名前はない」などという馬鹿南蛮学生の言い草にアフリカ人の留学生がたまりかねて「お前らは俺たちの名前を奪ったんだ!!」とマジ切れ。しかし南蛮人どもには彼が何故怒るのか理解できなかったらしい。(大意@あんとに庵)

キリスト教の文化世界では名前はカトリックの聖人の名前と相場が決まっている。(つまり、英語でいうところの「ジョンとメリー」とかバタ臭い名前な。わたくしも当然、そのようにバタ臭い名前を持っている。しかし「クリスティ作石」とか、そんな雰囲気の名前。どうよ?リングネームか?と思われるのがオチだよなぁ。)で、完全に国民のほとんどがカトリック、もしくはキリスト教という歴史の長かった国々では通常使う名前=聖人名なんですね。しかし宗教文化や歴史の異なる国ではそのような伝統はありません。概ねはその国の伝統的な名前の付け方に従います。そしてそれと別の霊名を持つことになるのです。例えば東京の大司教は「ペトロ岡田武夫」という名前です。この場合、聖書にでてくるおっちょこちょいで余計なことを言い、よくイエスに怒られる弟子。しかし筆頭弟子のペトロの名に由来し、岡田氏はペトロに守られていることになるわけですね。

カトリック教会が伝統的に聖人名を名前にするのはその聖人にあやかりたい、その聖人に守護聖人になってもらいたいという願いからです。また誕生日の聖人を名前につけたり、町の守護聖人、祖父母の名前をもらい代々その聖人の名がついているなど。色々な名づけがあります。だから異教徒の、つまり聖人でない名前ってのは守護の聖人がいないわけですから、ありえな〜〜〜い。という思いになるんでしょう。確かにキリスト教(旧教系)ではそれが一般的価値ですから、他の名があること自体不思議なのでしょう。それは逆に日本人がカトリックの人にバタ臭い名前があることがちょっと不思議に映るのと同じ構造です。でも日本人は説明すると概ね「ああそうか」と柔軟に受け入れてくれます。

先のエピソードはいかにヨーロッパ人がお馬鹿かよく分かります。もうヘーゲルの時代からナニも進歩していないようです。ITの時代もこの人たちには関係がないようです。異なる文化を持つ国々があるということが想像もつかないんですね、一種の中華思想です。しかし裏を返せばいかに日本人がなるべく自分のおかれた状況を客観視してみようという意識に慣れすぎたといってもいいかもしれません。だから西洋に行けば西洋のやり方に従おうとしたり、他の国でもその文化に従います。「郷に入れば郷に従え」と島国というわりには他所で自分のやり方をごり押しをしない。ただ自国の中では帰化する人々などに日本風の名前を強要したりしますね。知り合いのアメリカ人は横文字の苗字を無理やり漢字に直していました。例えば「アメリカ系日本人のブッシュ氏」「アフリカ系日本人のンガリ氏」ということは赦されないようです。それは結局、相手に「郷に入れば郷に従えよ。俺たちだってそうするし」という考えでもあるのかもしれませんが、文化の衝突たぁ、まっこと難しいものだと思います。
まぁ、私は日本文化をよいものと思いますので、こんなあほな南蛮人にはわたくしの日本名をきちんと呼ぶように教育的指導を行ってみたいものです。(しかし南蛮人はだいやもんどより頭が固い方も多いので、説得するエネルギーが無駄という場合もあり)