灰の水曜日

今週の水曜日は灰の水曜日だったが、当然、展覧会準備のためにミサはサボった。灰も塗ってもらえないし、それ以前に枝を持っていく機会もなかったので去年の枝は未だ手元にある。
カトリックという宗教世界には「典礼暦」という独特の暦がある。イエス・キリストの誕生を待ち望む待降節アドヴェント)。降誕祭(クリスマス)イエスの復活を待ち望む四旬節(レント)、イエスの受難を追想する聖週間、復活祭(イースター)、聖霊降臨(ペンテコステ)など、福音書のイエスの物語を一年かけて追想するような仕組みになっている。まぁ一年かけて、イエス様に萌えましょうということですね。で、「灰の水曜日」は四旬節の始まりの日なのです。
この日、信者はミサ中に額にぐりぐりと十字を書くように灰を塗ってもらえるんじゃが、これは回心と罪の赦しを願う者のしるしであり、ここより始まる四旬節中は、来たる復活祭に向けて、自分自身を振り返ったりするという、まことに辛気くさ〜い季節なのであります。昔はそれはそれは厳しくて、四旬節中はイスラム教徒のラマダンのように断食したり、肉断ちをしたりしていたようですが、現代はこの「灰の水曜日」と「聖金曜日(聖週間の金曜)」のみそういう日になっています。私は当然のごとくそういうことはすっかり忘れていましたが、展覧会前の修羅場で、毎日が断食状態だったので、自然に守ってしまっていたようです。ちなみに肉も食えない、修道僧のように真面目に生活しないといけないような辛気臭い「四旬節」に入る前に謝肉祭(カーニバル)というものをヨーロッパの人々は派手派手にやらかしたりしますね。メリハリがあるというのももしかしたらいいのかもしれません。
灰は昨年の復活祭の枝の主日に用いた棕櫚の葉を焼いたものを使います。復活祭の一週間前の日曜日は「枝の主日」というんですが、この日は信者は棕櫚の枝を手に持ち、司祭を向かえ、行列を為して聖堂に入ります。つまりイエスエルサレム入場をバーチャルリアリティに体験しようというこったすね。で、このとき手にした枝は司祭が祝別してくれますんで、皆家に持って帰ります。で一年間、どっかに飾ったりしてるわけです。まぁ破魔矢みたいなもんでしょう。こういう代物はなーんとなく勝手に捨ててもいけないのは洋の東西を問わず同じなわけで、どんど焼きのように、灰水(灰の水曜日のギョーカイ用語)の前に教会に持ち寄って神父が焼くんですね。で、その灰が灰水に塗られるという仕組みです。
こういうどんど焼のような習慣のような異教臭さでプロテスタントから「異教くせぇ」と批判されたりいたします。まぁ、聖書にそんことをしろとは記されていないし、突っ込まれてもしかたないんですが、宗派を問わない似たような習慣。こういうものが実は宗教を宗教たらしめているのではないか?などと思うときもあります。