『美しい夏』チェーザレ・パヴェーゼ 一瞬の夏

いやらしい梅雨のあの湿気に満ちた大気の数日。わたくしは締切で乾かない絵の具に、湿ってぶよぶよとした紙にむかつきながら仕事をしていたのだが、それも昨日ようやく終り、仕事を発送した、その日の空は、久しぶりの陽光に満ち、南の空には大きな入道雲がかかっていた。
島人達は「梅雨が明けたかも」と悦ぶようなそんな青空。昨日は仕事明けの朦朧とした一日を過ごしたが、続く今日もさわやかな風が海の向うから吹く、トロピカル度100%な朝に、「今日一日はバカンスに過ごす」と決めたので休暇日にしたよ。


というわけで、潮の引いた海に浮かび、午後は読書していた。
風がとにかくよく通る設計の我が家では、冷房などかけずに居間で寝転がっているのが一番涼しい。だから読書も進む。選んだ本は先日注文して届いたパヴェーゼの『美しい夏』
べた過ぎて恥ずかしくなるぐらいの選書だが、まぁ本読みの環境気分ってけっこう重要。

美しい夏 (岩波文庫)

美しい夏 (岩波文庫)

パヴェーゼはイタリアの近代の作家で、ファシズム下に生きた。彼は反ファシストとして投獄され、寒村へと流刑された体験を持つ。『美しい夏』は他二つの作品と共に三部作のような形で発表された作品の一つであり、その三部作作品のタイトルでもあった。彼はこの書によってストレーガ賞を受け、その受賞の二ヶ月後にトリノのホテルの一室で自殺する。

『美しい夏』のタイトルとは裏腹の重い空気に満ちたような印象はこれがファシズム政権下で執筆されていたという当時のイタリア文学共通の空気もあるんだろうが、都会に住む女性二人の孤独を書いたこの物語、先日紹介した漫画の『NANA』と同じように二人の女性の友情とも愛情ともいえぬ、交流が主体でもある。しかし『NANA』の女性達が対照的でありながらして対等に位置するのに対し、『美しい夏』では主人公ジーニアは友人であり、憧れであり、嫉みでもあり、軽蔑でもある対象としての、アメーリアの生きたそのあとを追い続けるという構造である。

ジーニアはその輝ける夏に、アメーリアと出会い、二人して連れ立って、夏の夕暮れを歩き、太陽が作り出す色鮮やかな季節を愉しむ。アメーリアの「画家のモデル」の仕事を知りたいと画家のアトリエに行き、やがてかつて彼女の仲間であった、画家グイードと知りあい、恋に落ちる。しかしこの恋は夏の終りの到来を告げるものであった。

作品の全体的な印象はイタリア人作家共通に見られるような視覚的な描写に優れている。グイードとその友人のロドリゲス(抽象画家)、アメーリアとジーニアが画家のアトリエで過ごす光景描写はラトゥールを彷彿とさせる。その闇の中で輝いて浮かびあがる人物像達は『恐るべき子供たち』のポールとエリザベート、アガートとジェラールが創りあげた無限世界を彷彿とさせる。しかし彼らは大人になりたくない子供たちであったが、パヴェーゼの彼らはそれは別に守らねばならないものでもない。過ぎていく日々の一つの光景でもある。ただひとり、ジーニアをのぞいては。

絵描きをモチーフとして出してくるだけあって、この作品は「視覚」をより意識しているとは思う。夏のあの色彩に満ちた世界と、冬の色を失った世界と、それは対比させられ、そしてジーニアはその色鮮やかな世界を何度も回顧し、また彼女が絵について語る時も「色」が重要であったりする。

殿方の登場と共に夏が終るというのはかなり示唆的でもあり、少女が女と変容して行くその季節。ロレンツォ・メディチが詠んだ一瞬の青春の歌を思い出す。
「青春はうるわしくも、しかして儚きものゆえに、
今をこそ愉しみておけ、明日はうたかたのごとしものなるがゆえ」
・・・みたいな、あれ。ちょっとちゃんとした訳のがどこいったのか探せないんでうろ覚えだけど。

少女時代の夢見る年ごろ的な世界を何故男のくせにパヴェーゼが書けたのか。面白い作家であるので、次は「故郷」を読むことにした。

ところで、今日は夕刻、庭の水まきをしていたら西方の東シナ海の水平線上にすごい雲が沸き上がってきた。あれだ、こいつはスーパーセルみたいだぞ。そんな不気味ですごい雲だった。上空は夏の青空なのに、東シナ海上は真っ黒な雲に覆われ、雲の下部が不気味に水平線に垂れ下がっている。まるでなにか怪しからんモノが地上を覆い尽くそうと触手を伸ばしている感じ。やがて風が嵐の到来を告げるものに変容し、慌ててテラスの椅子を片づけ、窓ガラスを閉めたら、雨がやって来た。360度、全ての地平が雲に覆われ、かすかにのぞく東の雲の切れ間の光に向かってトンビだかが風の流れに乗って飛び去っていくのが見えた。
しかし見かけのわりにたいしたこともなく、雨をちょいとだけ降らして去っていったが、空は再び梅雨の曇空、灰色に戻ってしまった。どーも梅雨空雲と太平洋高気圧の境界線を目撃したって感じだったのか???謎。一瞬の夏日はまた梅雨に戻るのか?

ただ、怖い雲が通り過ぎたあと上空が割れ青空がのぞいた。絵の具で塗ったようなすごい青がもうそこまできている夏を彷彿とさせる。東方の空には虹がかかり、来週には本格的な夏が来るのだろうなと、それはすごく嬉しい便りであった。
◆◆
いつものように巡回しているG★RDIASさんとこいったら、kanjinaiさんがゲーテ大先生に怒っておられた。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070614/1181749067
■[kanjinai][雑記]ゲーテ「野ばら」再考

曰く、「野薔薇の詩は男の自己中な詩だ!」
おお。ゲーテよ、たしかにこいつは自己中だ。嫌がる娘さんにそんなことを?!
ゲーテ先生も時代の限界から免れることがなかったということなのでしょうが、今日よんだパヴェーゼの小説がまさに「手折られた薔薇」が手折られる前の時を懐かしむ光景でもありということで、なんとなくこのエントリがわたくし的にヒットしてしまった。もっともパヴェーゼの方は嫌がっているのではなく、自ら手折られることに同意した結果なのですが。

ただ、この「処女であること」がかように文学的にも重要な位置であった時代があったのだと、それはついこの間まで実はそうであったのだと、女性にとってそれは非常に大きな通過地点であったことなのだと。そして今や、殿方が、年齢=童貞であること、つまり「非モテ」に嘆き悲しむ時代。なんだか性を巡る環境は現代においてもっとも大きく変容してしまったのかと、ちょいと思いました。