横浜では日本史の教科書が保守系になったらしい

絵を描き脳になっているんでブログ記事ってぇと、島台風とか島気温とかお天気の話程度のライトなモノしか書く気が起きない。エロゲー児ポ絡みの表現規制の問題とか、東トルキスタンとか、今度の選挙とか、クリントン北朝鮮に行ったよとか、色々興味深い話もあるんだけど、ブクマしたり、ニュース読んだりするだけでおわっちょります。

で、ニュース記事を読んでいたら、実家のある横浜でこんな事が起きていたようですよ。

▼「つくる会」主導の歴史教科書、横浜市の8区で採択
http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY200908040180.html
横浜市教育委員会(今田忠彦委員長、6人)は4日、来春から市内全18区のうち8区の市立中学校で使う歴史教科書について、「新しい歴史教科書をつくる会」の主導で編集された自由社版を採択することを決めた。同市の公立中で同会主導の教科書が採択されるのは初めて。全145の市立中のうち計71校(在校生徒数約3万9千人)が対象になる。

工エエェェ(´д`)ェェエエ工

ええと、わたくしは適度にウヨで、中国や韓国のナショナリスト共が反日で吹き上がっているのに激しくむかついたり、左翼な人々が「反日上等」などとやってるとどつきたくなるような感じに「愛国心」とやらを持ち併せているんですが、どーも、ナショナリスト反日が嫌いなだけなんだと、最近思っています。
最近では「在特会」のごとき偏狭な排外ナショナリズムや、中国韓国が絡めば頭ごなしに罵倒しかしないような珍風風味なものを嫌悪してしまうんで、どーも国内外問わず単にナショナリズムが嫌いなようです。それに加えて「反日上等」などというような自分はそこ(日本)に所属してないような視点で所属する国家を見ている部外者的無責任野郎が嫌いなんですな。日本のシチズンのくせに、市民意識がねーなというか。

後者に関しては、昔の左翼活動家の日本という共同体を外側から他人事のように見て語るような、俺達お前等とは違うかんね的な、隣人愛の無さにむかつくんですが、前者のナショナリズムについても、身内以外は排除するぞみたいな差別的なこれも隣人愛の無さに腹が立つわけです。まぁ、そういうわけで最近の右っかわな人々にも左っかわな人々にもついていけないとか思う事があります。

つまり、まぁ「日本」という国家というものを共和制で見てたりするみたいで「市民」の定義を民族という範囲で見ていないんですが、かといってその民主主義国家には愛着を持っていたりするという按配ですな。

で、今回はナショナルな人々のお話ですね。

つくる会の教科書ってのは具体的にどんなだか判らないんですが、我が父は大変に保守でして、つくる会なんていうのが出来る以前に「自虐史観」にむかつくといいながら『国民の歴史』という本を買って来て「お前も読め」と押し付けられた事があります。分厚いのとモチベーションが湧かなかったので読まなかったんですが、父の言うところを鑑みるに、大変に狭義に「日本」を設定してマンセーしているようです。
まぁヤマト民族のメインストリームがカタルシスの為に読む物語として、そういうのもあってもいいと思いますが「歴史」というよりは、ヤマト民族物語って感じなんじゃないかなと思います。

そもそも、前にも書いた通り、日本の歴史というのはヤマトにおける中原の歴史だけが歴史ではないので、あちこちの土地土地で歴史がある。我が島はヤマトでも沖縄でも奄美でもないですから、この土地には独自の歴史がある。ヤマトの歴史なんて遙か向うの海の向うのよく判らん出来事だし、近代は薩摩が奄美諸島を植民地化して、トンでもない事を散々していますから、うちの島の視点で書いたら薩摩藩士は超悪者ですな。アイルランドにやって来た英国人の如き鬼畜な歴史光景がそこに繰り広げられる事でしょう。「薩摩は腹を切って死ぬべきである」と又吉イエスさんなら地獄の業火に投げ込みたくなるかもしれません。

しかし、そんな薩摩を含む「ヤマトんちゅって超悪人かも」な歴史概念があるだろうこの島に、私のごときヤマトんちゅが住めるのも、島の人と共通に日本国のシチズンだからですね。この島で排外民族ナショナリズムが吹き荒れたら、私のような旅んちゅは財産没収されて収容所に入れられるか、島外に追放でございます。


閑話休題
日本国には、かように奄美琉球やヤマトだけでなく、アイヌ蝦夷など様々な民族史があり、歴史においてはそうした多重の視点というのは必要なんじゃないかと思いますね。島から見ると源氏と平氏の合戦なんてのは遠い国の夢の如き出来事ですが、琉球王の中山、北山なんてのは身近なリアル史ですね。痕跡も色々あります。

で、その歴史というのは、そこにあった事実の記載が重要であるわけですが、中心とする位置で、その出来事への評価、解釈というのはいかようにも変容するわけです。おフランスの歴史家ル・ゴフ先生も歴史を政治の道具にしちゃいかんと言っていた記憶があります。

ナショナリズムの歴史というとお隣の共産中国奨励の歴史が漢民族史で、その漢民族というのは古代と現代とでは定義が違っていたりするんですが、兎に角その漢民族というメインストリームの歴史は中原を中心とする歴史であり、「その時代、他の地にだって現代中国に連なる他の民族がいたよな」という突っ込みはなしみたいな感じである。日本のナショナルな人々が好む歴史というのもそういう感じがある。マジョリティ以外のことは知らんみたいな。

んで、そういう「歴史修正主義」的な教科書を使う場合はテキストを批判的に突っ込み入れながら教えたりするのも一興ではないかと思う。多重の視点が学べてよろしいんではないか?教科書の視点を是とするも、それへの批判的視点を是とするも、まぁ自由ですが、色々な解釈があってそれを知るというのはいいかも。ついでに「批判的にテキストを読む」訓練になってよいのではないか?批判的というのは否定とは違う。テキストを検証する視点ね。

現場は大変だと思いますが横浜の先生は頑張ってください。

◆◆

因みに、自虐史観等と揶揄される「日教組」御用達の歴史視点もかなり偏りはある

以前書いた記事を御紹介しておきます。
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050308/1110214366

日教組による歴史教科書の採点表の紹介なんですが、こいつがこれまた偏ってるというかこんなのも嫌だというか、こういう視点ばっかりを教えられるのも嫌だなと。愛国心で美しい日本でしかもヤマト中原の歴史もやだけどさ。
私が学生だった頃はまだマシだったよ。こんなにマルクスしてなかったし、かといって「日本(ヤマト民族)」マンセーでもなかった。カトリックの学校だったからかもしれないが「カトリックって駄目過ぎる」十字軍についてもちゃんと教えていたし、紐付きのイメージがない。