『激しく、速やかな死』佐藤亜紀 視覚的な解説を試みる

ええと、やっと集英社の仕事を出したんで、一息つき中。今日は堕落する。寝たりゲームしたり本を読んだりする。

ところで昨日、仕事の重圧からの逃避でぱそをアップ。佐藤亜紀さんの本について触れましたら、大蟻食さんがいらしてくださったので、それの御礼を兼ねて書評を書いてみることにしますた。

激しく、速やかな死

激しく、速やかな死

昨日も記した通り、この書の表紙画がそのままわたくし的書評なのですが。なのでもう語る事も無いんですが、他に感じた事でも。

わたくしの場合、本とか文字を読むと、絵がついてきたり色がついてきたり質感がついてきたりするのですが、佐藤亜紀の小説というのは御本人がもともと美術批評を大学院でやっておられたとかで、ヴィジュアル的イメージに変換しやすい。どの小説もなんとなく、なにかしらの「絵」を感じる事は多く、或いは質感、にほいってのもある。文字情報ではない五感が呼び覚まされるような、そんな観がある。

で、近代が専攻ということでこの短編も近代欧州が舞台。わたくしのごとき中世〜ルネッサンス辺りのしかもほとんど中部イタリア、主にフィレンツェに限るなんてミニマムな知識しか持ち併せていない人間にとっては、この辺りの時代は門外漢なので、勝手にイメージして楽しませていただいておりましたよ。


佐藤亜紀の小説の幾つかに共通する視点のイメージというのを鑑みるに私はこの絵を思い起こす。

これはピーター・ブリューゲルの『イカロスの失墜』という絵なんだが、あの有名なイカロスの悲劇のエピソードの光景にしてははげしく牧歌的である。
画面端でイカルスの身に大変な事が起きているのだが、だからナニ?的な扱い。ここで感じるのは、己の野望が招いた悲劇はそのまま喜劇的でもあるという視点でもある。

佐藤亜紀の小説は人間に内在するなんらかの愚かさを描き出すんだが、それをそこはかとなく冷笑的に、且つ同時に、それがゆえに悲哀を感じてしまうようなそんな印象の話が多い気がする。そしてこの小説でもそういう感じを受けた。

ゆえに私の表紙画はまんまその印象を描いている。とっても単純なのだ。

で、昨日コメントで大蟻食さんが仕事場にピラネージを飾っておられると書かれていた。記憶の容量がないのですっかり忘れていたんだが、そいや『掠奪美術館』でなにか言及しておったなと、書棚から出して来たらそのままその通りの事を書いておられた。


これは牢獄シリーズの絵なのだが、ああ?どうなってんだ?この建物はよ?!みたいな変な絵で、私はすこぶる好きであるのだが、佐藤亜紀も同様なようだ。この建物の中に入り込んで見たくもあるが同時におっかない感じがある。なんつーか、あのチューブ状のモノをやたらと出したがる、チューブ状穴ぼこ萌えなデビット・リンチ的な生理に訴えかける、怖いモノ見たさ的、欲求をくすぐられる。

『激しく速やかな死』のタイトル作「激しく、速やかな死」にそうしたイメージを感じたのは、ああ?!どうなってんだ?こりゃ?な閉鎖空間に置かれた男の死に囚われた内面の図像として、なんとなく思い出されてきたからで。

彼の目の前にはこんなイメージの光景がある気がしたのだ

ピラネージが言及されていた『掠奪美術館』の項はモンス・デジデリオである。ピラネージ好きならモンスも好き。但しピラネージより、モンスのほうが埃臭くて湿度がある。ほどよく田舎の都市の司教座の教会のお宝の聖遺物みたいな感じの絵を描くモンス・デジデリオ。絵から黴と死臭が漂うという希有な画家である。『掠奪美術館』で取り上げられたのはモンスの絵は「地獄」の光景であったが、今回の短編集の背景にあるような事態というのはモンスのこの絵の方がなんとなく似合ってる気もしなくもない。堅牢な歴史という構築物の中の人間の脆さとか、あるいは歴史が持つ暴力的な破壊の図像として相応しいというか。もっとも「地獄」の描く、奥ではすごく大変な事が起きてるのに、手前では変なポーズをとったねーちゃんとハデスの二人のカップルが「世はなべて事もなし」的にそれを見てるって光景も、上記ブリューゲル絵に通じるなにかがある。

昨日取り上げたタレイランをモデルにした「荒地」のイメージはこれ

何故・・・ダリ?
我ながら何故かわからん。単純に新大陸だし、大地が広くて空が広くて、海も出て来るし、全体的に広くて水色っぽい感じ〜。なだけかも知れないけど。
ただ、ダリの絵にあるように、なんらの凝縮された情念をずいぶんと乾いた感じでぼこんとほおり投げておくような、そんな印象を受けたというのはある。

ちなみに、問題作。どこぞの架空戦記という、正直はなはだ漫画的な物語(実は二作ほど読んでその口唇期を出ていないかのような世界にうんざりしてほおり出した)を書いた作家が変な書評をしていたというので佐藤亜紀をいたく怒らせた「アナトーリとぼく」なんだが、わたくしのイメージ的なのはこれ。


「アナトーリとぼく」は本ネタはトルストイの『戦争と平和』らしい。
わたくしは絵描き馬鹿なので当然ロシア文学などまともに読んだ事はない。最近読んだロシア文学はマルガレータがどうしたとかいう、スラップスティックで、これは初っぱなから主人公かなと思った登場人物がいきなり首ちょんぱで死んでしまうとか、大変に馬鹿げて、人を食ったような小説で面白かったのだが、「ソ連」では受け入れてもらえなかったらしい。ロシア文学というと他にはドストエフスキーなんだが、こやつの話は牛の涎のごとくだらだらだらとしていて読破出来たためしがない。断片的に面白いんだけど、ああもだらだらだらとしていては飽きるんだよ。いらちな関西人だから。ソルジェニーツィンは悲劇的すぎる。

そういうわけで食わず嫌いでロシア文学は手を出していない。もっとも同じようにドイツ文学もあまり読んでないし。そもそも教養的な読書をしていないので『戦争と平和』とか言われてもわからんのである。

で、話を戻すが、イメージが何故ヴァン・ダイクの『神秘の小羊』なんだか、自分でもよくわからない。ただ、ヴァン・ダイクのあの緑の質感なんだ。そのしばしばとした緑の草原の質感。他の緑では駄目だ。フランドル絵画のあの緑でないと駄目だ。うちの犬がおしっこしたくなる緑。でも島の緑ではない。そこに人々が点在してるようなイメージを受けた。

あと、お話の感じからするとこんな風なんでもいい感じ

マーク・ロスコ。この人も質感がいいんだよね。
この質感。緑の質感と他とのバランスがいい感じな。

まぁ緑の質感なんて事を言われてもなー、荒巻なんとかさんより酷い書評だが、そう感じたんだよね。

他の話も連想した画像を探そうと思ったけど、もう辞めときます。説明のつかないものも沢山あるから。というかそういう方が多い。
ビジュアル書評をするとナニがなんだかわからんな。でもわりと本読んでる時こんな感じですよ。