『砂の器』『ゼロの焦点』松本清張『飢餓海峡』水上勉 暗い戦後小説読みまくりな日々

土日がぽっかりと休みとなったのでだらけて読めそうな楽な小説を読もうと思った。有名で誰もが読んでいるはずみたいな存在なのに読んでなかった系の古い小説を読みたくなったのだな。

松本清張水上勉というと両親や兄が読んでいて家によく転がっていた。物心着いた時には既に推理小説の大御所という印象。『点と線』などで時刻表の見方はこうやってするんだなということを教わった覚えがある。内容は忘れた。のちにトーマスクック片手に欧州を鉄道旅行する時、この小説のことを思い出したぐらい。それもどんな話か内容を覚えておらず時刻表であれこれ乗換えを工夫してる時に、そんなトリックがあったよな〜みたいな。

武蔵野の小さな駅にこじんまりとした街の本屋さんがある。その地下は本屋さんが経営する画廊になっており、お誘いを受け、友人と展覧会をしたことがある。そこの書店主、なかなかに押し出しの強い顔つきをしていてタダモノでない雰囲気があったのだが、実は松本清張の息子さんということで、ああ、なるほどと思ったことがある。親父に似ているのだ。親父が小説家で息子が本屋さんっていうのがすごく羨ましいなと思った。本屋さんというのは昔から憧れの職業だったのである。ここの展覧会のお誘いも「本屋さんが行う展覧会」というのが魅力で二つ返事で受けたのだ。本屋さんいいよ。本屋さん。
・・・・そういう時代だった。まだ、ブックオフなどない、売れ筋本よりなにやら本好きの琴線に触れるような本がまだ元気だった時代である。

その松本清張が実は祖母とほぼ同年代だと知ったのは最近である。

生誕100年ということで中島敦太宰治大岡昇平埴谷雄高と並んで名前があったのだ。意外だった。
太宰や中島は教科書に載るような昔の人のイメージで、祖母より二つほど上というのがピンと来ないし、埴谷雄高は前衛な印象で祖母より若い感性なんじゃ?と思っていたし、ましてや松本清張が生きていたらそんな歳なのかと愕然としたというか。現代小説的なイメージが出来上がっていただけに、よく考えたら私が生まれる前から既に大御所で、当たり前なのであるが。とにかくここに挙げた作家が同時代人で、尚且つ祖母と同時代人ってのがへぇ〜と思った。

ことに通俗的なものを扱う推理小説を書く松本の過ごした世界が祖母が過ごした世界とも重なるということに興味を持ち、読んでみたくなった。

砂の器(上) (新潮文庫)

砂の器(上) (新潮文庫)

砂の器(下) (新潮文庫)

砂の器(下) (新潮文庫)

暗い・・・・。

物語は「国鉄」の操作場に置かれた血まみれの死体の発見からはじまる。被害者は死の直前にトリスバーでみすぼらしい服の男と飲んでいたことが目撃されている。被害者は東北地方の方言と思われる「ズーズー弁」を話していて「カメダはどうですか」という言葉を口の端に上らせていた。
たったそれだけの手がかりしか残されていない。迷宮入りするかのような事件であった。

ミステリーとしてはお軽い印象もあるくらいなのだが、時代感覚が重いというか暗いというか、現代の感覚からするとものすごくズレがある。物語の内容よりもそっちの方が面白かった。

なんせまだ新幹線がないんである。家賃6000円のアパートはパトロンがいない限りは女給さんは入れないような高い家賃だとか、海外行くのには羽田空港から出るとか、前衛芸術家たちが語ってるのが妙に50年代60年代的な古くさ感があるとか、なんというか、ムズムズするような古臭さなのである。

古い時代のミステリ(例えばコナン・ドイルとか、江戸川乱歩とか、)というのもあるけど、自分が子供の頃にその欠片を知っている古さというほうが逆に古く感じられるというのは面白い発見であった。松本清張より歳が一回り上の横溝正史なども近い時代を書いているはずだと思うが、ほとんど田舎が舞台なので、都市を舞台とした松本の方が自分に馴染みがある。しかし横溝以上にむずがゆく古いと感じてしまう。

「社会派小説」などと呼ばれた松本清張の作品であるが、この『砂の器』の根底にあるのはハンセン氏病への偏見と差別の問題であり、また方言の音から見た類似性という民俗学的なネタなどが謎の一つとなっていて、その辺りは松本清張だなぁという感じ。

社会派小説云々に関しては、三島由紀夫松本清張の作品をして社会派と呼ばれることに抵抗感があったようだということを『中央公論』の対談で関川夏央が語っていた。三島由紀夫は社会派小説を書けるのは自分だけだと思っていたようだ。

社会派とか以前に、小説のできばえとしてはイマイチである。

ゼロの焦点 (新潮文庫)

ゼロの焦点 (新潮文庫)

松本清張自身が代表作だといっているんで買ってみた。今となってはなんじゃこりゃ?という小説である。松本先生、済みません。そういう印象を受けてしまいました。

砂の器』以上に小説のできばえがイマイチなのだが、結婚したばかりの夫が失踪し、その過去を探る妻。というそれだけのお話。完成度はやはり『砂の器』には及ばないのではないか?
読んでいて「警察に早く言えよ」と思い、主人公の女にイライラした。

松本清張の作品を読んでいて戦後から60年代までの暗さというか、怪しさというかそういうものが、昨今の下流で不安定で、明日のことが不安なわたくしの気分に実はたいへんにマッチするような気がしてきたので、このあたりの時代を書いて暗そうな小説といえば・・・・水上勉だ!

・・・というのでこれを読んだ↓

飢餓海峡(上) (新潮文庫)

飢餓海峡(上) (新潮文庫)

飢餓海峡(下) (新潮文庫)

飢餓海峡(下) (新潮文庫)

いかにも暗そうである。下流で不安定で明日のことは判らないような冬のキリギリスのような生活をしているわたくしの心にアプローチするのであるよ。小林多喜二の『蟹工船』を読む気持ちもよく判るよ。

前代未聞の沈没事故が起きた洞爺丸事故。その事故の遭難者の遺体が乗船者の数とあわない。二つの余分な遺体は網走刑務所から出所して間もない二人の犯罪者なのか?そしてその二人と行動をともにしていた大男の行方はわからず、彼らは同じ頃に起きた岩内町の大火のほうか殺人犯ではないかと刑事達が事件を追っていた。しかし行方しれずの大男の足跡は青森の娼婦宿あたりでふっつりと途切れている・・てな、始まり。

まぁ、前半はびんぼー、どん底の生活をしている娼婦の話である。身を売るしかない、しかし心ばえは素朴で正直な彼女の、その生活のつましさにどうも心が行ってしまった。物語の内容よりそのシンプルな生活というか。彼女の死後、彼女の持ち物がまとめられるが柳行李一つに納まるほどの持ち物で、それが彼女が東京で働いていた20年ほどの持ち物であったというシンプルさにぐっと来てしまった。まるでカポーティの小説の女みたいだ。

読んでいて現代人は物持ちすぎだよなと生活空間を見渡してしまいました。大学時代に買った雑誌の山とか。浪人時代のときに来ていた服まで後生大事に持っているあたりの物持ちのよさは主人公と同じであるが。

そういうモノ溢れの特徴は日本的なようで・・・

地球家族―世界30か国のふつうの暮らし

地球家族―世界30か国のふつうの暮らし

この写真集は世界30ヶ国の中流家庭の家財道具を家から引っ張り出して外に並べた写真集。
他国の人の家財道具ってのが興味深かったんだが、日本のがすごい。圧倒的に他の国を引き離して家の中に納められている物体の量が多い。どうやってこれを全部収納してるんだ?というくらい驚くんである。

これは柳行李に全て収まりませんな。

これくらい国民がものを消費して経済を回さないと国民全部の仕事がなくなるという社会構造って実は疲れるんじゃないかとか思いましたが、しかし消費脳にやられてしまっている私は、セールとかいう文字があるとつい見てしまうのであります。

ところで・・・水上勉でした。
飢餓海峡』は松本の小説よりはずっと安定して読みやすいですね。他のも読んでみようかと思いまして現在、家の書棚を探している最中ですが、古本屋に出してしまったらしく見当たりません。
母が「水上勉ってすごく暗いわよねっ!」と言っていたのでたぶん出したのだと思います。残念です。

上記の本を読んでしまったんで、先日から読んでいるJR、革マルネタ本を「電車に乗るとき読む本」にしてる私は、今度は『日本の黒い霧』とか読み中。のっけからJRネタだ。下山事件だ。

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)

新装版 日本の黒い霧 (上) (文春文庫)

表紙からして暗い。