教会における政治スタンスの差異がもたらす溝問題(すごく長い)

今回はギョーカイねたです。数日前のエントリにコメントくださったLuciaさん、madrigallさんへのお返事もかねています。

先日、中央協議会(ローマ・カトリックの日本のなかの「本社」みたいなもん)の一機構である日本カトリック司教協議会社会司教委員会の発表文書が俗っぽくて朝日新聞の社説みたいで、なんだコリャ?などと書いたのを受けてLuciaさんが「そうでもありませんよ」と批判を下さったりしたやり取りがあったわけです。詳しくはそのエントリとコメ欄の様々な方の書き込みを見て下さい。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/comment?date=20090114#c

以前から新左翼的な立場の人々の考えている常識と、自分の考えの常識のズレってなものは感じていて、特に世代的に人口に占める数が多い60代から50代の人々の中にある独特のエートス的なものがあるなとか、それが新左翼的なのが多いなとか感じていたわけですが、個々にはまぁそれぞれに思想があり考えも異なる人も多いんですが、どうもティピカルな世代的シロモノというものがある。
つまり人々を全て十把ひとからげに団塊の世代はどうとか、新左翼はどうとかなどとはいえないわけなんですが、個々に見ると「この場面におけるその立場の人からの典型的な反応」というものが存在したりしますね。
これは別に左翼とか右翼とか政治に限ったことではなく、信仰者だってそうだし、趣味の範囲とか、仕事とか、どんな件でもその人が置かれた環境とか立場の一定の集合体の「典型的な反応」というものがあって、それをしてまぁ、自分自身のそれに頑固に固執し、それを普遍と考え、客観的に物事をとらえてない人などは「原理主義者」とか言われたりしますね。
概ね、なにかの集団を批判する場合は、そのような原理主義者的なモノが批判されているとしていいでしょう。

実存では完全に原理主義な人はそうそういないわけですが、時々そういうケースを露呈してしまうこともあるというのはどのような立場でも起こりうる。そしてそういうケースを以て、その場面における「原理主義的な」要素によって、カテゴライズされ批判をされたりしてしまうのですね。左翼、右翼批判の場面ではそういうのが実に多い。

言論とは曖昧なものをカテゴライズすることによって成り立つんで剣呑となりかねるのも宿命です。名辞というのを的確に行えるのは実は神しかいない。

それが今回問題となった文書の(直接的ではないが)政治的な色彩の問題の根底にあると思います。

それゆえになるべく議論の場に於いてはそうした齟齬をなくし対話に導く為に自身を相対化していかねばならないわけですが、これはけっこう難しいものですね。

ローマ・カトリックの政治地図事情
さて、ローマ・カトリック日本本社である中央協議会というのはつまりバチカンの日本支社なんですが、会社組織として考えるなら、わりと自由に振舞っている部分が多い。マクドナルドみたいに画一的ではなくて、現地で考えて決定して動ける要素がすごく多い。原則的なお約束を破ると大変だけどそれ以外の要素には幅がある。そういうわけで日本のカトリック教会機構を総括する本社が「中央協議会」と考えてください。

さて日本のカトリックにおける社会への「政治」的なスタンスは伝統的にはノンポリシー。カエサルのものはカエサルにということで、教会組織としてはイデオロギー的な偏りはない。政治に関わってろくでもない羽目になったのは過去に体験している。(信長とかの時代にな)
ゆえに信徒や聖職者の個々の政治思想は右から左まで多様である。曽野綾子もいれば井上ひさしもいる。右派の過激な政治おじさんもいれば、新左翼の政治おじさんもいる。つまり政治スタンスというのは各信徒の良心に任されている。とりわけどちらに共同体として偏っているなどはなかった。政治的イデオロギーの問題は教会外の話題であり、教会とはそのような俗な次元とは異なる、福音的な視点から世を見るといった世界だという印象しかなかったし、そういう視点だから渦中にあっては見えないものも見える利点があるんだろうぐらいに思っていた。

ところが十数年前からこうした事情が変容してきた。

日本のカトリックの中央協議会の公式に発表する文書が新左翼的な色が濃くなり、新左翼的な政治的スタンスにバックアップされた活動団体の名前がカトリック教会内で眼に触れることも多くなってきた。

正平協と呼ばれるバチカンにも存在する、正義と平和について考える協議会なのだが、神による正義、神による平和というのはクリスチャンの根幹であり、このようなことに取り組む団体が存在するのは不思議ではない。社会に存在するあらゆる価値によって周縁に追いやられる人々の問題に光を当てるというのは大切なのであるが、日本の該当団体の場合、福音の言葉というより、どこかの政党のような言論を吐くので、うちの師匠などは彼らの発言によく顔をしかめていた。

また、中央協議会の場を借りていた、従軍慰安婦問題などを主張するVAW-NET JAPANについてはこのブログの開設期に取りあげたことがある。サイトに載せられた協力者の羅列に多くの修道院名が入っていたその方法論の不正な水増しの問題(のちに名を連ねていた修道院の修道女に尋ねてみたが、そのことを知らず驚いていたし、無断で宣伝に利用されたことに怒っていた)を指摘した。(のちにそれは団体のサイトから消されている)

九条の会」についても同様に、これは賛同者の司教が率先して活動しており、東京の母教会にも司教自ら宣伝にやってきた。そういう政治活動は御免こうむりたいと信徒会側ではいったん断ったが、修道会が受け入れてしまった。この後、今度はバランスをとるつもりなのか?曽野綾子の講演を行ってるが、こちらはおそらく信徒側が主催。(もっとも曽野綾子の所属教会なんで、曽野綾子が怒ったのかもしれないけどな。)

日本のカトリック教会のお役人達(一部の司教や××協議会、××といった活動団体)のそのような左傾化言動が目に余るようになり、いったいどういうことか?と驚いた。ネットなどではそのような言質を取り上げられ、ネットの右派からカトリックは左翼団体の巣窟だなどと批判される始末。

わたくしが若い頃、馴染んでいたカトリック教会と異なる、俗っぽいような騒々しさが蔓延するようになった。とはいえ、共同体が左傾化したわけではなく、相変わらず、聖職者にも信徒にも左派も右派もいる。ただ中央にいて言論を吐く司教や団体が目立つ為に、かき回されているという印象である。

エスの福音がいつの間にか政治的な意思に摩り替わられ、信徒達が動揺し、中には反発し、極端な方向に行ってしまうものまで出てきた。極端な保守団体に向かったり、左翼嫌いな極右な人々がネットで声を挙げ、激しい口調で批判をはじめた。カトリック教会は左翼活動家からオルグされているなどと批判する人々もいる。

んで、多くのノンポリな大多数の信者はその騒々しさを嫌って、なんとはなしに距離をとっているという印象。

現状はこんな調子。

正平協はほんとに左翼団体の巣窟か?

正直、結論付けてしまうと、現時点の観察から見るなら左翼政治団体というより単なる新左翼思想の持ち主が沢山いるだけの集団に過ぎないのでは?とは思っている。何故なら左翼活動家がオルグを目的として活動するならもうちょっと賢い方法でやるだろうなと思うからなのだが。

その左の成分率がどれくらいかはわからないが、まぁ新左翼思想成分率はかなり高い。しかし人権問題を考える場において新左派思想の人々が集まるのは自然ではある。また活動上、扱うものの性質が性質なだけに、教会外の団体と協力する場合、どうしても新左翼思想団体と関わることも多いだろう。

ただ、多くの日本人が過去の左翼過激派の活動体験から、「左翼によるオルグ」を懸念するのも無理はない。

こんな本がある↓

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

マングローブ―テロリストに乗っ取られたJR東日本の真実

ずいぶん前に福田和也週刊新潮で取り上げていた革マル派JR東日本における活動の実態本。ま、国鉄時代から組合組織がくんずほぐれつ怪しく戦っていた悪名高いJRの現代の話。
労働組合を完全にオルグし、異なる思想の持ち主の社員を糾弾する、退職に追いやる等、なかなかすごい話が載っている。JR東日本は完全に革マル派に掌握されたという記事を載せた文春はキオスクの販売からはずされ打撃を受け、謝罪文を載せざるを得なかったと、のっけから剣呑な話である。なにやらテロ未遂とか、赤ちゃんが誘拐されたりとか、すごく怖いとんでもない話まででてるようですがまだ読了してません。

まぁ、どこまでが陰謀論でどこまでが真実か判らないんだが(福田和也はついでに労組問題は社会保険庁にも存在していて、社会保険庁への批判はその組合のやり方も批判しなくてはいけないだろうという話を書いていた)とにかく左翼活動家が組織を掌握する手法というのは「マングローブ」のように根を組織にじわじわと張っていく。この「オルグ」というシロモノは、上記の本だけでなく、様々なところで指摘され、また異なる立場の人々から警戒されたり、左翼活動家なんぞは奨励していたりする。

卓越した政治集団に目をつけられたらあっという間に日本のローマ・カトリックなんぞどっかの政治過激派に飲み込まれてしまうかもしれないという恐怖を感じている人も多いんじゃないか?右派の人々の一部はそんな感想を漏らしていたりする。

アメリカの例を見ても判るように宗教団体というのは政治の票田になりやすい。現に日本でも既に特定の政党が・・・以下略。中国では宗教団体は反権力の巣窟となると(歴史的にもそういうことが多いし)頭ごなしに反革命団体と決めちゃってるんで弾圧されている。

信者というのは、神父様のいうことなら、司教様のいうことならと、従う人も多いので、政治的にオルグするにはローマ・カトリックはもってこいの団体である。私がもし政治家なら利用しない手はないと思っちゃうかもしれない。

特定の政治団体が「正平協」を「利用している」のは事実ではあろう。つまり正平協そのものが左翼政治集団というよりは、現時点で左翼団体に利用されているとは思う。様々な左翼が音頭を取る活動に協賛団体として名を連ねたりしているし、司教自らが行脚する「九条の会」の活動などはまさにそれである。

◆左翼活動が何故困るのか?

イエス・キリストの福音は「貧しい人々の為に」とか、周縁にどうしても追いやられてしまう人々へ目を向けている。いわゆる人権問題の先輩みたいなことを仰っていたりするわけだが、左翼の活動も同じように人権の問題を積極的に取り上げている。ゆえに同じものを目指しているんで、「左翼の活動が困る」「左翼思想は困る」というのは本来おかしな話ではある。

しかし決定的に違うのは、神の存在と不在である。

神は「全ての人」を救済の対象としている。つまり神の視点では周縁という存在はない。施政者もそれによって周縁に位置づけられるものも全てが等しく救済の対象であり、ゆえに神の前の平等という考えが根底にある。富める者が持たないものを助けるというのは当たり前の行為であり、それは神に命じられた行為である。そこでは「誰が悪い」という探求ではなく「神が命じることを行う」という単純な発想で行われる。

左翼や右翼と言った政治集団の場合人間世界での中での問題に焦点が行く。問題解決を行う為に、どうしても施政批判に向かう。それは政治思想の問題であり、政治のシステムが問題であると考えるのは左翼思想そのものが政治システムについて考える思想集団だから政治批判は当然である。

教会は前者の発想で虐げられる立場の人々のことを考えるが、政治思想家は後者のように考えるという違いがある。

さて、思想集団というのは、宗教団体も政治団体も、人間世界の次元のみで考え始めると、異なる思想や考えのものを排他するという困った性がある。

先に紹介したJR本なんぞは極端な話で、他の組合の関係者と飲んだというだけで糾弾されるという全体主義的光景が描かれていたりするが、アメリカのレッドパージとか、中国の文化大革命とか、戦時下の日本の憲兵とか、カトリックの異端審問とか、まぁもっとよく知られた例が色々あります。

で、目的を同じくした団体に違う目的の団体がやってきたりすると、ことなる考えの他者を排他するという現象が起きて、もとの団体の人々が分裂したり混乱したりする。

カトリック教会の場合、イエス・キリストの福音を証することを生きようとする目的の団体なのだが、そこに前述の政治的な左翼思想の言動が目立つことになって、信徒が反目してしまうという現象が起きてしまった。

この場面でよく聞く言葉が「司教様を批判するなんて」とか「司教様の仰ることに従わないなんて」というシロモノである。そんな第二バチカン公会議前のような発想がまだ信徒には存在していたりするのには困ったものだ。そのような上意下達発想がまだ存在していることに驚くわけなのだが、実は前述のJR東日本本『マングローブ』でも、指導部に従わなきものはJR社員にあらずな扱いが指摘されている。

マングローブ』についてこんな話も↓

○とれいん工房の汽車旅12ヵ月
http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20070621/1182419625#c
■[鉄道マニアの話]国鉄分割民営化の時の鉄道マニアを想う

鉄ちゃんなブログ主さんの書評はなかなか鉄道マニア視点で面白い。
が、今回はまだ読了していない『マングローブ』の書評ではなく別の話なのでとれいん公房さんのエントリは今後の読書の友とする。
で、コメント欄でだるま弁当さん(高崎の鉄ちゃんか?)がこんなことを。

国鉄分割民営化当時の社会に生きた者より。
たしかに、あの時代は「多様な文化」なんてなかった。革新政党が上のものの言うことは絶対という主義であることに気づいたこともあります。
趣味人同士も労働組合の糾弾、あるいは政府の糾弾。でも鉄道に勤める人間は「労働者である」ことは事実です。
友の会もめちゃくちゃでした。労働者のため戦うとか、利潤追求は当然とか。イデオロギーのぶつかり合いで何も生まれない状況です。
私は中立的にしようと思っていました。でもそのとき左翼系の会員が本を作りました。一応買いましたが、国労員で首になった人に「効果があったと思うよ」という手紙を出しています。人権よりイデオロギーが組織というものと確信しました。

うーむ。どっかの教会で起きてる光景みたいだ。

革新政党が上のもののいうことが絶対だという主義ってのはあるかもしれないです。が、政治政党って左に限らず、そういうの多いと思うけど。

ここでも、政治思想によって鉄ヲタさんたちの世界まで対立していたようです。政治の問題を持ち込むと兄弟が反目してしまう宿命の図の例として心に刻まれてしまいました。

つまり、右左の政治思想のどちらが良い悪いなどという問題ではなく、イデオロギー問題というのは大変難しい問題を生むということである。

政治思想がどちらでも別に構わないが、異なる思想の持ち主が共存する為にどのように振舞うべきかというのは問われることであろう。

◆反目を産まない為にすべき3つのこと

タイトルはホッテントリメーカー・・・・3つじゃないけど。

単に教会内での公私の区別をつければよいだけのことで。自分の思想のみが絶対であるなどとやらかさなきゃいいだけの話である。エキュメニズムですな。あくまでも教会の場合は、政治思想は「私」の分野であることを自覚しておくべし。

教会の場合「イエスの教えに忠実なのは××の思想だけだ」とかいうようなイエスとか神様を持ち出して自己の意見を保証するような言論は先ずご法度。「お前は神か?」と問われるであろう。

議論になっても、対立する意見の人もまた神で繋がっていることは常に意識する。

直接相手を罵倒するとき「キリスト者として如何なものか?」などというようなのはあまりお薦めしない。というのもそんな言葉を吐くと自分自身が計られるだけだし、そもそも罪びとの集まりであることぐらい自覚しろとか神様に言われちゃうと思う。でもまぁ言いたくなっちゃうときはあるかもな。相手と決定的な溝を作らないため心の中で言いましょう。

××神父がそういったからとか××司教がそういったから従え。などというのは思考停止なファシズムなので問題外。他者の権威によって自分の意見を権威付けるのではなく、自分で責任とれってなもんです。

で、教会組織のお役人というか、指導的立場にある人の場合はもっと言論に気をつけなくてはいけないので大変であるが、そもそもトップに立つというのは多様な人々の意見をくみ上げる責任があるから当然大変なのである。責任者というのは組織を私物化してはいけない。

フランシスコの思想では例えば管区長は下の下の立場で最も低くされねばならない会士達に奉仕する立場であるといってました。会士たちの意見をよく聞かないとあかんとか言ってます。

もっとも会士(信徒)たちは烏合の衆なので勝手で、それぞれが違うことを色々がなりたてて責任ある立場のものを悩ませますが、調停する立場として振舞うべく奔走させられる目に遭うのは、ローマの司教第一号のペトロからの伝統で仕方ありません。

異なる意見の調停をしながらも、イエス・キリストの福音から外れないように指導するという大変なお仕事ですが、わたくしどものような末端のものはそういう偉い方々の働きを陰ながら祈りでサポートするしかないのですな。