最近読んだ本を羅列する。エコなのとか、国家論なのとか

このところフランシスコ麻生太郎ローゼン閣下の衰退が激しく、麻生太郎の口の悪さを愉しむコミュもなんだか楽しめない。景気対策ではがっかりさせられ、口の悪さは切れがないどころか、困った領域に突入していて愉しむレベルではない。ストレス溜まりすぎというか、ふてぶてしさがものをいう政治ギョーカイにおいては閣下はいささか線が細いということを以前も書いたことがあるが、うーむ。口の悪さがマジにクチが悪いだけになっているな。
コミュの皆様は麻生閣下に愛を以て解釈しようと勤めておられるが、そんな気になれません。こげなご時勢なので予算案は迅速に通さないとやばいという気持ちは判るが、ばら撒きなんぞ、肯定できんぞ。

そういう師走の首都生活、ニュースは他にムンバイの[これはひどい]テロ話とかタイのトンでも空港閉鎖事件とか、アジア激動していますが、島で怠け体質のわたくしも流石に怠けてられませんでしたよ。10月11月はなんだかセンセも走る忙しさで締め切りに追われ続けて死んでいたが、合間に本だけはしっかり読んでました。通勤って本読むよね。

恐怖の存在 上 (1) (ハヤカワ文庫 NV ク 10-25)

恐怖の存在 上 (1) (ハヤカワ文庫 NV ク 10-25)

亡くなられたクライトンさんを偲んで香典代わりに読んだ。
まぁ最近のエセ科学だか似非科学だかの話で盛り上がってる人にはお薦めする。人はそこに「科学であれど」見たいものを見る。の法則発動小説。
エコも過激になるとトンでもである。科学的なデータも見たいところしか見ない。反論は全て陰謀論的に考えて排除。「企業は地球温暖化の決定的な証拠を握りつぶしたいが為に不都合なデータを無視し、都合のいいデータのみを見る」等々。
挙句は「科学的に得られた」確信(単なる主観的希望)を現実のものとする為にエコテロリズム、すなはち、実際に「地球の危機」を演出までしてしまおうとする環境破壊エコテロリストが登場してしまうのである。・・というお話。


マイクル・クライトンはこの小説でそこはかとなくアルゴアの『不都合な真実』を批判しているわけだが、しかし彼はけして「地球温暖化はない」と考えているわけではない。単に今まで集まっているデータからは地球温暖化であるかどうかは「判らない」と考える態度が必要であると言っているんである。
そういうわけで、見たいモノを見る的な態度というもの批判をした小説という感じでもあるけど、科学者自身がデータの扱いによってまったく違う結論を引き出してしまうという、そういう科学的態度と呼ばれるものの難しさ、真の科学的態度とはナニか?なことを問題提起する小説としてははなはだ面白い。
ただし単なる小説として面白いかというと全然面白くない。だらだらしてるし、ご都合主義なとこあるし。まぁその手のアクション的な要素とかはオマケだろうなぁ。
晩年の作品としてこんな奇妙なのを書いたという辺り、ちょっと面白かったです。
ただ、アメリカや欧州のデータでは温暖化傾向は実は見られないという平均温度の推移に対し、アジア、それも日本列島の幾つかの都市の平均温度上昇っぷりは異常である。クライトンはそのようなデータを示し、あやしげなほのめかしみたいな疑問を読者に持たせるんだがそれの解答を書いていない。世界でアジアが、それも突出してあきらかに温暖化しているってのはじゃぁどういうことなんだ??という疑問だけが残った。
日本列島全土でヒートアイランドしてるだけなのかね?

個人的には地球温暖化というより「偏西風の動きが最近変」って感じもしますよ。それは中国からの・・・以下陰謀論略。

◆◆

ポスト世俗化時代の哲学と宗教

ポスト世俗化時代の哲学と宗教

えっと、これもざざっとすごい勢いで読んだ。電車と病院の待合室の中で。
大層面白うございました。

かたや哲学のすごいおじさん、かたや聖域のすごいおじさん。その二人が共通の話題を語り対話したってのは、すごいなぁ欧州。こんな対談があったなんて。俗界の最高の叡智と聖域の最高の叡智の出会いという按配。
ハーバーマスという人は哲学の人なら知ってるだろうすごいえらい人らしい。らしいというのは著作読んだことないからだし、哲学なんてよくわかんないからだけど、たぶんすごい人っぽい感じ。スタンスはレフトでリベラル。
他方、ベネディクト16世となってしまったヨゼフ・ラッツィンガーカトリック世界でも肩を並べる人はそういないぐらいの知の権化である。わたくしのようなものが彼の著作を読むと10頁も進まないうちに確実に寝る。スタンスはライトで伝統主義的。
しかしである、右だろうが左だろうが叡智を極めたようなおっさんが語る言葉には共通があるって辺り、まずもって、イデオロギッシュで自分を相容れないものを頭ごなしに否定したがる人はこれでも読んで猛省を促したい。理性の理想的な形がここにあるという感じですよ。

この書は欧州という「キリスト教世界」で語られているという限定はあるものの、欧州で誕生した法治国家という枠組みの中で生きている我々にとって国家とはナニか、共同体理念とはナニか、その社会共同体に存在する倫理的な問題とは?という今日我々が日常的に直面する問題の糸口になるだろうという有難そうなお話が大量に出ている。
「ありがたそー」と書いたのは哲学脳などないわたくしの脳の解析が偉いおじさんのお話についていけないので、理解してないとこが大量にあるからだが、直感的に[これはすごい]と思ってしまったので、私よりはおつむのよさげだろうと思われる皆様にはお薦めする。哲学のての字もよく判らず、法学のほの字もわからず、倫理学のりの字も判らない私でも面白いと感じたので、きっと皆様は楽しめるでしょう。

国家というものとか、あるいは文化的なものとかってのは、ナニゴトかを限定してしまう宿命がある。ゆえナショナル的な排他性を持ったりとか、色々危険物体であることを自覚しなくてはならないと思うんだが、このおじさんたちはそれを踏まえたうえでのポスト世俗化の時代に、ではどうすべきかと模索しているプロなんだな。そういうプロが現代の倫理的問題、国家共同体問題 多元的時代の共通善の問題等々、ぐにぐに色々言ってるわけです。

まぁ、読み方によっては、こいつらキリスト教文化圏人間どもがっ!!!!ってな気分にもなるけど、それはそれとして、そういうコンテキストで読みましょうよと、読む側も心しておかないといけないとは思います。「一シューキョーなカトリックと哲学の対話」ってな前提ですから。

またこの書の後半には訳者の三島氏による現代の欧州や教会の歴史的問題などが書かれていて、こちらも読み応えありますな。欧州批判やカトリック批判をしたい人はこれを先ず読んだほうがよいと思われますのだ。ナチ前のドイツ事情とか教会のナチスへの態度の問題とか面白いよ。ビスマルクにいじめられてたんだ。カトリック・・・・_| ̄|○
あとラッツィンガーがかつてはリベラルであった話とか、具体的にどうリベラルであったかとかの伝記にもなってますね。第二バチカン公会議の立役者でもあるラッツィの漢っぷりも萌えですよ。

追記)

そいや、こっちもクライトンの本同様、科学と宗教がっ!とか似非科学が!とか信仰とか理性とか科学とか・・とか言ってて、なんだかそれぞれの分野について西欧的文脈でのそれが理解できてなくて、オッカムの剃刀で切る分けることが出来ない方にお勧めかもですな。

◆◆
他にも色々読んだんだけどここで力尽きた。また書くかも。