『街場の教育論』内田樹 大学が抱える問題の処方箋になるか?

いつもののぞいている『美徳の不幸』さんのブログ。呟きみたいに面白いことを書かれているので、読んでいます。
そこで『ハチミツとクローバー』に関する感想がちょこっとでていた。その中で気になった記述。

○美徳の不幸
http://d.hatena.ne.jp/t-kawase/20081128/p1
■[book]激しさの描写
美大がこんな爽やかなわけないだろ、もっと互いの才能を気にしてドロドロしているよ」

うーむ。わたくしは美大にどっぷり6年もいて尚且つ今は美大にいるが「ドロドロしている」感じがない。もっとドロドロしていそうなもんなのだが、意外とそうでない。

ハチクロに関するほかの感想

「何で真山は山田にいかねえんだよ、そりゃ、据え膳喰わないのが少女まんがのヒーローの鉄則だけどさあ、片思いばっかなんだよな、このマンガは」
「はぐちゃんって、そんなに魅力的か?山田の方が圧倒的にキャラ立ってるじゃん」「何でもこなせるスーパーマン設定(森田)はしらけるよなあ、吉田秋生Banana Fishも最後の方になるとアッシュが超人になり過ぎて物語的には失速したしなあ」

・・・は思わず膝ポン。かなり受けました。

なんで、美大の描写に関していうならはちクロはまぁまぁリアリティはある。尤も時代的に70年代漫画っぽくてなんだか嫌だなぁという感じでわたくしは読むモチベーションは低くなり、途中でやめました。

美大というか美術というのは個の作業なので、自分の中で完結する性もあり、他者的なものとの関係性が低い。なので優れた存在に対し素直にすげーとか賞賛するが、それで自分の世界が足を引っ張られることもないので単純にすげーと賞賛してしまうのかもしれない。なので鬱屈感がないのかそこんとこよくわからない。そもそもドロドロする社会というものが判らないということもある。少なくともわたくしの出身の大学はそんなだったですね。在籍中に日比野克彦という世間的なスーパースターが出たんですが、回りもそれぞれ守備範囲が違うからねたむこともなく、ヤツに続けという感じはありましたね。寧ろ彼を知らない人々、特に位置的に離れている人の方が敵愾心を燃やしていたという光景はありましたね。例えば他の大学の油画科な人とか。
つまり狭いコミュニティ内では、ドロドロがない。知らぬもの同志となるとある。という構造はあったかもしれません。これは現象としてちょっと不思議な感じがします。

油画科の現代美術世界は彼を否定して拒絶したがる人は多かったのは、現代美術世界がアカデミズムに対抗して起した彼ら自身が作り上げた新たなアカデミズムに対するアンチ的な存在だったからで、これはウォーホールの登場みたいなものともかぶる。「新しいもの」を模索する永久革命の宿命みたいなもんですが、あまりに資本主義、商業主義的な構造に乗った日比野という「新しい」存在の嫌悪という純粋な芸術的理由があるからで、「才能を気にして」というのではないですね。

美術世界で負の感覚があるとするなら、侮蔑ですね。描かないやつに対する侮蔑。逃げるヤツに対する侮蔑。

才能がなくてもそこにしがみついて回答を探すことが要求される世界なので容易く逃げるやつはやはり軽蔑されてしまう。しかし悩みぬいた結果として本人が己の才能に対し答えを出した世界が美術でなくてもそれは別に侮蔑はされない。また才能がなくてもしがみついてやり続けているということも、これまたなにやらそれはそれで敬意を払われたりしますね。

かように、美術世界は辛らつなので才能がないのは消えるだけです。才能があるヤツがすごいと思う場合はうらやむのではなく、そこに到達するしかないことを自覚するし、到達できないなら、自分自身が到達できうる手法を探すしかない。そういう形で棲み分けが出来ていったりするんですね。なので、アート世界にとどまるものもいれば、イラスト描いたり、漫画描き始めたり、教育に目覚めたり、デザイナーになったり、企業に勤めたり、評論を書きはじめたり、その行く先々はそれぞれです。
それぞれの世界で生きていくことを承認していく。

ところでロンドン在住のコンテンポラリーダンスのdanceinlondonさんは大学で教鞭をとっているのですが、彼女のブログにこんな光景が

○London Dance Diary
http://blog.goo.ne.jp/danceinlondon
■どの国でも…

先週クラスが終わってから黒人の女子生徒シェリーが私のところへアセスメントのことで話があるとやってきました。アセスメントではビデオカメラの前で生徒が何人かのグループに分かれて課題を踊らなければなりません。シェリーは第一グループでアティリオと言う男子生徒と一緒に踊ることになっていましたが、そのグループを変えて欲しいと私に訴えてきました。理由を尋ねると…

「練習の時はちゃんと出来るのにアティリオのせいで振付を間違えちゃうから…」

と、彼女が悪びれずもせず言ったので、私は膝カックンになりそうになりました。確かにアティリオはミュージカリティーにやや問題ありなんですが、彼の強いところは人から影響されない、間違ったカウントでも平然と踊り切ってしまう、偉大な音痴なところなんです。

「だ〜め、あんたが間違えるのは彼のせいじゃないでしょー。他人を気にしないでしっかり自分に集中すればできるはず!」

と、私がシェリーの要求をはねつけたら、とたんに彼女はぽろぽろ涙をこぼしてしゃくりあげ始めました。

「だって、彼のせいで私がみっともなく見られるのは耐えられないわー。」

××のせい症候群は日本のみならず他国にも?!
で、これは同じクリエイティブな仕事をする美大にはあまり見られない光景です。共同作業をしない美大では「××のせい」という時は、社会一般に向かっていくことの方が多いかもしれません。
ですから身近な人間関係はドロドロというよりは同志的な結束に向かっていくことの方が大きくなりますね。

さて、内田樹の『街場の教育論』です。

街場の教育論

街場の教育論

ここでははじめに書いた美大固有の個に向かう為に生じる、他者へドロドロが向かわないようなある種の淡白さについて逆に考えさせられるものはあります。

内田先生が想定しているのは、クリエイティブではない世界での教育ですから美大には当てはまらない部分は多いのですが、80年代以降、個という問題がより意識される世界におけるカタストロフィの光景は内田氏に限らず色々な識者が描き出していていますね。

例えば今回の厚生労働省事務次官殺人の小泉毅容疑者については藤原新也が、内田とは別な観点とはいえある種共通することを書いています。
○Shinya talk
http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php
■私たちは彼、小泉毅に自らの願望を託してはならない。

後半部分では藤原新也がずっと探求してきたテーマが再確認されています。1960年代生まれ以降に起きている問題です。

さて内田はこの書において、現代の若者にある問題として、それら個性を求めることが賞賛される消費社会の価値に巻き込まれた現代教育の現場に対する批判をしているのですが、個性が強く意識した人間は、社会という人間の関係性が強く、企業という、個人よりも集団として動いてなんぼの世界にほおりこまれた時にその振るまいが判らなくなる。その集団で容易く自分が否定されたと思いこんでしまう。ゆえに企業にいることが出来なくなって簡単に転職してしまう。といったことを指摘しています。

これは、藤原新也によって語られている「小泉毅」の像や、あるいは同じように藤原によって語られる秋葉原における通り魔殺人事件の「加藤智大」の肖像にも通じるかもしれません。

うちの父などは戦前の価値で生きている人ですから、企業に入るということはその企業の責任の一端を負うことであるとか、自分自身が世に出なくとも大勢の人とともに作り上げたものが世に残ることを「素晴らしいことだ」と絶賛していました。同じように社会における自分とは、その共同体に参賀する市民として負うべき責がある的な考えでしたから、他者的にモノを見て批判だけするような考えを特別嫌悪していました。批判するなら先ず己自身もまた隗よりはじめるべきだろうということで、私はかなりその思想の影響は強いです。

なので、どーも逆に絵描きとしては三文になってしまいました。コラボしてるほうが楽しいし、作家さんの本の挿画を描くことの方が自分に向いているなと思うことがあります。ですが個展となると向いてないことをするのでどうも血を吐くような努力をいつも強いられます。これはこれで困っています。

で、美大の場合は内田樹が指摘する「他者とコラボレーションが出来ない」「個性」というものを教育課程で確立していく必要があります。そしてそれが前述の通り、現代の美大の人間関係がドロドロしないことの要因でもあるわけですが、逆をいえばそういう淡白さが強い、個を探求するのに特化される教育をすべき美大の場合、それは果たして本当によいのか?という謎は残ります。そこにいる他者に対しドロドロするようなものがないゆえにイマイチ探求が浅いのか?的な問題とか。異なる別のことを考えさせられますね。昔の卒業生の話を聞くと案外仲悪かったりとかもあるし、淡白なのは現代の現象なのか?とか。
これはまぁちょっとした課題ですね。

内田樹が描いて見せる教育現場に対し異論もあるだろうし、内田樹はなんとなく印象を書いてほおり出すようなトコもあるんで、微妙な消化不良感は残るし、読み手を選ぶかもしれません。しかし箴言的という感じで、そのアフォリズムについて考えさせられるような本ではありますね。

そいや内田樹は『はちクロ』に関して、別な意味でリアリティがあると書いてますね。大学における通過儀礼的な世界の話ですが。これはなるほど。そういうことは無意識にいつもしてるなと思います。どの世界に於いても。はてなやりはじめのときとかね。はてなの符号やお作法に慣れるまでアンテナを張り続け情報収集していくとかさ。そゆ、身近なことからやっていきますね。
この身内的な馴れ合い問題と、通過儀礼的ななにか、空気嫁問題等々、もまたどこでも必要とされるサバイバル能力か。

◆◆
ところで内田のこの書では最後に宗教教育問題が書かれています。
霊的なものと実存世界の間にある中間域を意識しろ的な。あの世とこの世の曖昧な境こそ人が会得したほうがよい大切な感覚といいますか。

カトリックの場合、聖と俗という領域が明快に存在しているので常に自分がどの位置にいるか意識させられます。聖なる領域が可視化されているし、俗なる領域と矛盾している場合も多いのですが己の中でそれは聖なる意識において、それは俗なる意識に於いてというような位置づけをできるので、矛盾した事柄でもけっこう自分の内部で同居してしまうようなことがあります。脳内でそのようにしまっておけるので分裂したり混乱はないですが、その二つの領域を常に行ったり来たりという感じです。

ですから内田先生が言わんとすることはよく判りますね。
どんな宗教でも霊的なものでもいいですが自分の中に聖なる存在という引き出しを持っておくのはよいかもしれません。

島人はアニミズムな自然神道という霊的な世界を自分の中に持っていてそれとうまく同居していますね。わたくしの島の母親(島母)はそういうのが巧みな方で、感性が豊かであり、強い方で、他者にも公平に愛を差し出す方であり、人としての器が広いといいますか、わたくしはすこぶる尊敬しています。内田樹が言うところの人間としての「メンター(先達)」というか、関係性を持たざるを得ない社会における振る舞いの師と言いますか。常に意識させられます。
彼女には「偉大な母」の原型をそこに見ることが出来ます。地母神的なのですね。現実的な人であり、シャーマン的ではなく普通にお母さんなんですよ。そこがすごい。
島母が現実と霊の世界を自然に同居させているあたりにその秘密があるかもしれません。