貧しい人にほどこすことの善と、それを語ること。ベネディクト16世の「自然法」について

このところ、締切にぎりぎりと痛めつけられているので、頭を使いたくない。文字で構成していかねばならないぱそなんかもっての他である。ましてやもともとがロジカルよりは直感的人間なのに、仕事となるとその直感力を駆使しなきゃならんので余計にロジカルさからは遠くなる。
かくして、文字上での論争とか、論理的なことは脳に入らなくなるであるよ。

しかし、ネト仲間のuumin3さんを通じて知った色々な議論を読んでいて、うううむ。と色々考えてしまった。倫理の問題が延々と語られている。あ〜。なんつうか、トマス・アクイナスかドゥンス・スコトゥス辺りにおいで願って整理してもらいたくなるぐらい複雑怪奇な様相を数多のブログが組んず解れつやりはじめている。(というか、中世辺りでも前述の神学者達が、ごにょごにょと同じく複雑怪奇にそういう問題を考えていたわけで、その辺りの書物*1を当たると色々出て来そうだけど、やりたくないよね)

もとネタは介護問題に於ける姨捨山問題から発した。老人を介護施設に入れた人々の「言いわけ」するその後ろめたさについて「出来るはずなのにしない」ことを「出来ない」というのはおかしくないか?という話だった。

○G★RDIAS
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070406/1175824830
■[x0000000000][雑記]姥捨山問題をめぐって

老人介護は大変である。うちなんか要介護が二人もいるんで、他者的な問題ではない。確かに「出来る」はずのことを「しない」ことも多い。自らの仕事に支障をきたすと共倒れになるのが目に見えている。それでも「やろうと思えば出来る。」ことはある。介護をするに当たって我が家で決定する時の基準は「被対象者(祖母、或いは父)の希望がどうであるか?」である。介護のやり方が下手くそな私は祖母に嫌がられるので、扱いが巧いプロに任せてしまう。祖母自らがその方が楽だという。施設の入所は祖母が決めた。自分で行きたい処を希望しさっさと入ってしまった。こんなふうに被介護者の希望がわかる時はなるべく沿うようにはしているが、それでも後ろめたさは残る。時に弱気になると寂しいとこぼす。なまじしっかりしているだけあって、「迷惑を掛けたくない」と思っている要素も大きいのかもしれない。家で全面的なケアは「出来ない」わけではない。その真意を問うても、「今のままでいい」というだけである。

で、ここで「しないのに出来ない」「やらない」ことに対する「言いわけ」への批判。それらを罪に問う、言い募る光景ってどうなんですか?という議論がどーもあったらしい。ここの経緯はイマイチ精密に追っていなかった。

○キリンが逆立ちしたピアス
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070407/1175955958
■[倫理]姥捨て山の尾根を歩く

これを受けて以下のエントリをG★RDIASの別論者、kanjinaiさんが上げた。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070408
■[kanjinai][雑記]「本当は、できるでしょう?」という暴力

後者では質問形式をとるので、相手に回答責任を負わす手法はどうなんだろう?と思いつつも、とりあえず、引用された文において、できるでしょう?と問い掛けたものの責任はどうよ?という話になってややこしい。

たしかにこの問いつめの光景は、介護現場にいるただでさえ鬱になりかけている人が異常に多い場においてきつい。無理心中をはかる介護者の多くは自責と無力の中で絶望していく。介護者に対するケアが叫ばれていて実際にその手のネットワークが出来つつある。Font-daさんにはそういう光景が念頭にあるだろう。

「本当は、出来る」はまったくその通りの正論ではあるが、しかし、世の中には「(私がつらいから)出来ない」といいつつ昼間テレビを見てゴロゴロしているのもいれば、「これだけしたけれど、それでもまだたりない気がする」と己の人生投打って介護し続け草臥れ果てている鬱になりかかりの方までいる。後者は意外と多い。

前者には「出来るくせにやらねーで言いわけすんな。」という話法をしたくもなるが、後者には流石にいえない。己のキャパ越えている光景では「出来ること以上のことをしている」ということであるわけだし。だから想定され得る相手のどういう光景を描いているかで投げ掛けが変わる言葉ではある。

介護家族に直面しているととにかく鬱に引きずり混まれそうになる。我が母が毎日のように父のことで電話を掛けてくる。これをして見たがダメだった。。アレを試みたらダメだった。可哀想だがどうしたらいいのだ?そういう母が痛々しいので延々話を聞く。こういう人には「本当は出来るでしょう?」とは言えない。x0000000000さんもそういうのは念頭にはないとは思う。


これら介護をめぐる「できる」「しない」論において、はじめのx0000000000さんにしても、kanjinaiさんにしても、なんとなく言葉数が少ないので今一真意が分らない。解決としてではどうなんだ?という辺りが見えづらい。とにかく問題にしているモノの光景のずれがFont-daさんとあるようだ。

・・・とまぁこういう議論推移があった中で今度はこういう光景が書かれる。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409/1176086019
■[x0000000000][雑記]「本当は、できるでしょう?」の原初的風景

たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。

目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。

それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。

このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。

仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。

「出来ない」「しない」の光景を描くのに、違う光景の事例が出てきた。
介護の話じゃなかったのか???

それを受けて、uumin3さんの異議。
○uumin3の日記
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20070409#p2
■[倫理]道徳的詐術
http://d.hatena.ne.jp/uumin3/20070415#p1
■詐術2

まず「アフガニスタンの子供たちの為に募金をする」は善を行う行為であることはまぁ誰もが一致すると思う。それによって自らがどう動くかとわれる場面で「募金した」=善 は確かにその通り。と誰もが言うであろう。しかし「募金しなかった」=悪とされる時、言われた方には逡巡が生じる。

募金しなかったから人殺しなどと言われたらたまったものではない。と、まぁ普通はそう思う。例えば「電力の際限なき消費は環境破壊をもたらす。ゆえにここでぱそぱそしている人は、ぱそを切りなさい、環境破壊をやめなさい」といわれて「そうだった。今月はぱそやめるぞ〜」と素直にスイッチを切る人「ああ。まぁたしかにそーだよね〜。」と言いながら鼻ほじって、次にようつべ見にいく人、「バカ言うな。まずもって環境破壊とパソ使用の因果関係が云々」と言い出す人、「余計なお世話じゃ、てめーだけでやってろ」と怒り出す人。「そういう口調は如何なものか?」と提言する人、等々、様々いるのがまぁ人間社会ではある。

そういう数多いる人間に対し、どう語り掛けるか?

この場合は「人殺し」というぎょっとする光景を描き出すことによってより問題を明解にしようと試みたのだろうと思うのだが、正直に言えば、或る種の論理的素材として、言語ゲーム的に、アフガニスタンの家族や(このあとのエントリでも出てくるが)ホームレスを持ち出す、その手法はどうにも嫌悪の方が先に立つ。倫理の問題はリアルな問題ゆえに。論理的には言い得ていることであったとしても、その話法において、彼等が話法の手段化されている光景に、どん引きしてしまう。たしかに「第三世界の問題は我々に無関係とはいえない」のはその通りである。介護問題で「しない」ということはやはり、うしろめたくなる、つまり否定的なジャンルに入る。しかし、それらを語る時の方法論として説得性があるか?どうか?と言うと、単にない。

これでは本来、話者が伝えたかったことが拡散しつつある。より過激になりつつある。そこに語り掛ける相手に対する断絶がある為に、本来の伝えたい事柄は既にどこかにいってしまっているように思える。「出来るのにやらない」罪悪感、意志の問題を語ろうとしているのだろうと思うのだが、話が却って見えづらくなってしまった。罪はありますか?」「ありませんか?」と二者択一的に問いつつけてナニがしたいんだ???とだんだん疑問になってくる。

つまり、uumin3さんが問題としているのは、相手の主張内容そのものではなく、その「言葉」語り掛けようとする見えない他者に対する信頼の在、不在にあるとはいえる。それは本論の問題というよりメタレベルの話ではあるが。uumin3さんの苛々は他者への愛と連帯を語る人間が、今目の前に存在する他者との愛と連帯を無視していることの構造に由来している。

だから問題点がずれてしまう。

こちらのエントリはよりグロテスクだ↓
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070416/1176724097
■[kanjinai][雑記]ホームレスの人を助けるべきか

私の住む大阪市では、寒い夜に、道ばたによくホームレスの人が不自然な姿勢で倒れている(ように見える)。

私はこのような知識を持っている。「ホームレスの人は致命的な病気を持っていても、お金に余裕がないために病院にかかれず、死期を早めてしまうことが少なくない」。

さて、私は8千円持っていて、いまからそれで手塚治虫全集を買おうと思っていたのだが、私の目の前で倒れているホームレスの人に声をかけて、8千円を渡せば、ひょっとしてその人がそれで病院に行き、致命的な病気が見つかり、その人がより健康になり長生きするかもしれない、と思う。だが、私にとってはその人の命よりも、手塚治虫のマンガのほうが大事だったので、そのまま無言で通り過ぎた。

さて、この場合、私は「間接的ではあろうが、私は他人を見殺しにすることに加担した」と言えるであろうか。

なんともどんどん釣りのような状況になりつつあるが・・・(^^;

メタで言うなれば「論の語り方がとにかくなんか嫌〜」「プレゼン悪過ぎね?」「こういう傲慢な話法、嫌い〜」とは思うが、その辺り、ナイーヴ過ぎな読者を更に挑発し、いたぶるがごとくの言葉は既に確かに暴力の様相ではある。その一連の問題に関してのkanjinaiさんの苛々感を感じなくもない。他のエントリなどではそうでもないので、このネタだけなんでだ?とは思いつつも、この流れにおいてはコメント欄でのやりとりも含め他者に対し嘲笑的である。しかしこれらは、論者のパーソナルな問題であり、論とは切り離して考えた方がいい。
その手の己の感情レベルを抜きにし、本論である「無作為の罪」についての事例としては、考え易い。

下流で、八千円なんて本とてもじゃないけど買えない。文庫本すら買えない、なのに年齢制限に引っ掛かってバイトがない!という一年を過ごしたことのあるゆえに、ホームレスは他人ごとではないと常々思っているわたくし的には、高額所得者であるという論者よりはホームレスの感覚の方がよく判る。「八千円より、仕事くれ」と継続的に生きられる社会にしてくれ。と願うかもしれない。おもらいさんであることは寂しい。人の情けはしみじみと感じるけど、でも仕事が欲しい・・・。と思うだろうな。
しかも重度の貧血で酷い目に遭ったという細木さんのいう大殺年のような一年だったので、このホームレスみたいに寒空で倒れていたら、救急車呼んで病院まで連れていってもらえたら「一生、犬と呼んでください」と尻尾ふるかもしれない。とにかく八千円はいいから病院連れて行って。と思うだろう。

だからわたくしはなんとなく明日は我が身の倒れているホームレスは気掛かりになる。でも、気掛かりではあるが通り過ぎてしまう。お巡りさんに「あそこで人が倒れています」と告げることはあっても。後ろめたさをどこかで持ちつつ、去るだろう。八千円与えたとしても後ろめたいだろう。最期まで見届けたか?その後、自立出来るようになったか?永遠に気掛かりになる。

それを全部、負うことの出来る人間はなかなかいない。いたら聖人だ。凡人が出来ないことを出来る人。滅多にいない希有な存在が聖人と呼ばれる。

「しない」ことは罪なのか?と問われるなら、どうなんだろう。
「罪」にしても「悪」にしても激しくどぎつい言葉ではある。あまりに人にいうもんではない。

「罪」というのはキリスト教的には「神への負債」である。キリストの贖いによって「原罪」から解放された我々は、よく生きることに対し責任がある。だから罪を行うというのは、神から負った負債を返してない状態みたいなもん。

更に神の被造物であり、善なる神の似姿たる我々は、本性的に神(=善)を知っている。と考えるのは主知主義か。丁度「自然法」についてバール・カルト先生がご自分のエントリで、ベネディクト16世をネタにこんなことを書いていた。バール先生は法律家で尚且つ名前からも判る通り、伝統的ルター派のクリスチャンである。

教皇ベネディクト16世の自然法国際学会に関するあいさつへの論評
http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/20070416#1176739911

バール先生によると

私は,プロテスタントで,そのうえ,どちらかというとカール・バルトの考えに近いので,上記の聖パウロの言葉は,そのままでは受け入れることができなかった。人間に理性が残存している(神の似姿)としても,それは決定的に堕落しており,信頼することはできない(ルターも同様のことを言っている)。そのような信頼できない理性によって,神の存在や自然法を「認識」することはできない,と考えている。

 そのうえ,法律家としての私は,ハンス・ケルゼンの考え方(法実証主義)を枠組みとしていた。「法は理性の産物ではなく意思の産物である。意思−主権・憲法制定権力−を制限するものは何もない。『自然法』は虚妄である」という考え方であった。

バールセンセはスコトゥス>オッカム>ルターと続く主意主義者だったのか〜!?

ルター派ローマ・カトリックの違いは人間本性をどう見るかってのがある気がする。まぁ神学門外漢なんで厳密にはいえないが、ローマカトリック楽天的なのか、上記のように「決定的に堕落しており、信頼できない」とはあまり考えない。ゆえに主知主義(トマス君)な立場でどーも物事を考えてしまう傾向はあるかも。

この相違が上記のエントリ論争でも、あるんじゃないか?とは、ふと思った。
前提となる人間本性に対する認識差違というか。根底にあるそれの差違が、それぞれの思考の違いを形成してるんではあるまいか?などと思った。直接的ではないが、なんとなく・・・。

で、問題の教皇ベネディクト16世の文章。
自然法についてのおはなし。ありがたくお聞きあそばしまし。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message192.htm
教皇ベネディクト十六世の「自然法国際学会」参加者へのあいさつ

 これは明らかにただちにすべての人に課された真理です。この原則から、すべての人の権利と義務に関する倫理的判断を規制する、他の個別的な原則が生じます。たとえば、受胎から自然死に至るまでの「人間のいのち」の尊重という原則です。いのちという善は人間の所有物ではなく、神の無償のたまものだからです。「真理を探求する責務」もそうです。それはあらゆる真の意味での人格の成熟のために必要な前提だからです。もう一つの基本的な主体の要求は「自由」です。ただし、人間の自由は常に他者と共有される自由であることを考慮するなら、自由の調和は万人に共通なものにおいて初めて見いだしうるものであることは明らかです。万人に共通なものとは、人間の真理であり、存在そのものの根本的なメッセージである、「自然法」(lex naturalis)にほかなりません。また、次のこともいわずにはいられません。一方で「各人に各人のものを」(unicuique suum)与えることの内に示される「正義」が求められます。他方で、すべての人に、特に貧しい人に糧を与える「連帯」が期待されます。すなわち、より恵まれた人が助けの手を伸ばすことが望まれています。このような諸価値によって、例外なしに守るべき諸規範が表されます。こうした諸規範は、立法者の意志にも、国家が与えうる合意にも依存するものではないからです。実際、このような諸規範はあらゆる人定法に先立ちます。ですから、誰もそれを廃止することは許されません。

まぁ、基本的にしゅーきょーの人だからね。彼にとっての自然法は神に由来するけど、一神教でない日本でも「人としてどうよ?」な考えはある。「人としてよく生きようよ」ということの動機は、神になくとも、別のものがある。なにが善で、なにが悪なのか。親達の世代から受け継がれてきた倫理がある。

まぁそれはさておき、社会共同体は、他者と共有されるものであるがゆえに、紆余曲折しながらも、絶えずその構成員達の幸福を考えながら進歩しては来た。少なくとも現代においてあきらかなる奴隷売買はなくなり、領主が一方的に農民から搾取し、餓えさせるに任せるような行為(未だ似たような光景が見られることや一部の例外があるとはいえ、)から多くの人は解放され、「領主、馬鹿。死ねや。このボケが!」などと言える自由を獲得してきた。よき社会を目指し今も発展しつつある。その努力は怠らないでいたいとは思うわけなんじゃが。

で、上記の論の後半などは、問いの回答の一つにはなるだろう。
前提が前提(しゅーきょー親父の話)だけに、このおっさんの言うことに異議もある人はいるだろうけど。

まぁ、↓こういうベネディクト16世の言葉に・・・

 人間の心に記された自然法についての知識は、道徳的良心の成長とともに増大します。ですから、すべての人の、特に公的な責任を有する人の第一の務めは、道徳的良心の成長を促すことです。道徳的良心の成長は根本的なものです。それなしに他のすべての成長は本来のものとならないからです。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

以下のようにバール先生がつっこんでいるが。

「公的な責任を有する人の第一の務めは、道徳的良心の成長を促すことです。」とラッツィーは述べているが,弁護士(私の仕事)は,一応「公的な責任を有する人」なのだが,自分自身の「道徳的良心の成長」は全くないし,他者(お客様)に対して「道徳的良心の成長を促す」なんて,自分自身,欲深く汚れに満ち罪ばかり犯しているので,とてもそんな不遜なまねはできない。聖パウロも似たようなことを言っている。

わたしもバール先生同様。告解ネタまみれな人生なので、なかなか言えんことではあります。
ただ目指したいシロモノではあるなと。

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バール先生のお返事が来たので貼り付け。つかトラバしてちょ・・・。

http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/20070417#1176823256
■アントニ庵姉妹へのレスポンス(主知主義主意主義


プロテスタント地図は複雑なんでよく判らんとですから、有り難いです。
ロマカトリックは第二バチカン前は主知主義的だったけど第二バチカン以降は主意主義的な気がす。バールせんせが解説してくれたようなプロテスタント諸派のごとくそれぞれに対し明解ではなく、渾然としているかもしれないな。

まぁ、身近なフランシスカンはヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものには沈黙するじょ」などと申しているので、オッカムの正しき系譜をなぞっているといえるか。

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kanjinaiさんがニューな設定で更に質問。
○G★RDIAS
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070417/1176810310
■[kanjinai][雑記]ホームレスの人を助けなかった私

よりリアルになった。

そういや、トマス先生はこう書いていた。

「たとえば人が、人がなにごとかを良き乃至悪しき目的によって行うことを意志しながら、彼がなんらかの障害の故にその実行を差し控えるのに対して、他の人はその所業の完成に到るまで意志の運動をやめないとするならば、あきらかに後者におけるような意志のほうが善乃至悪においてより持続的であり、したがってそれはより悪しき乃至より善きものである」
神学大全』Qu.20,act4

トマスせんせは、なにか善なること(或いは悪なる行為)を意識しながらも、なんらの事情で出来ない場合の設定として書いているが、ここでは善、悪は多寡によって考えられていて面白い。へぇ。


アフガニスタン家族とこのリアルシチュエーションでは、無作為の罪への仮借に大きく差違がある自分を発見。

「出来る」のに「しない」というのは「やりたい」意志がある場合においては善的なものではあるが、しかし出来る故に行ったものはより善である。とトマスせんせは考えるかもしれない。
アメリカがくしゃみしたら日本が風邪引く的な因果問題に関しては、そういう問題定義とちがうが「募金」行為の部分だけ考えると、募金箱見つつお菓子買うのと、我慢して募金するのとでは、前者は何もしていないだけで、後者がより善であるとかにはならないのかなぁ・・・?トマスせんせは随意的であることと不随意であることをわけて論じてるが。

うーん。ここの因果関係というのは悪なのか?というそもそもの疑問があるけど、この辺りも含めてトマスせんせの本をめくっているが、いかんせん、ロジカル不足の頭が痛いので読む気が起きん。

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もとネタの論文を紹介し忘れていたというか、じっくり読んでみた。

姥捨山問題 森岡正博
http://www.lifestudies.org/jp/ubasute.htm

「正論」によって決定付けられた倫理を今一度見直そうという方向になるほど。
ここには全ての上記の問い立ての根がある。

姥捨山問題が生じる状況において、正論の倫理学は不毛である。「こうすべきだ、ああすべきだ」と述べることで自足してしまう倫理学ではなく、すべきではない行為を結局はしてしまう人間を見つめ、その人間の立場に立って、その人間がその人間のままで何をすればよいかを考える倫理学こそ、そこにはふさわしい。

*1:その辺りの書物:トマス・アクイナス の『神学大全』9巻は延々その手の話が続いている。「人間的行為の善性と悪性一般について」とか「意志の内的行為における善性と悪性について」とか、だらだらと丸まる一巻そういう話。中世から人の考えることは変らないのだ